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2017年03月12日00:06

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タイム・オブ・ザ・ウルフ



『タイム・オブ・ザ・ウルフ』
  レイシストは線路に燃え上がる火に入ろうとする少年を救う。ここに表される人々は誰しも相手を憎む可能性を抱えている。超えれない火なのか、それとも超えようとする勇気が表されるのであろうか。家を失った漂流民。獲物を求める狼かのように生きる。相互理解は欠如されている。不条理だがリアルだ。
  アルモドバルとハネケ、ライターでもあるふたりだけれど、彼らの傾向は演劇的。アルモドバル観てると、こうした台詞って現実的に有り得ないよな、台詞がダグラスサークなメロドラマティックしていると思っていたけれど、そうしたものもありつつ、オールアバウトではブランチデュボア演じられていたけれど、演劇的なんだと気が付く。一方で、ハネケは『タイム・オブ・ザ・ウルフ』で特に目立つけれど、残酷劇、ってのではなく、悲喜劇トラジコメディである。所有地でのファニーゲームのような死、とても不条理アブソードである。演劇性ある台詞、そして状況は彼らの特徴でもある。
  演劇性あれど、やはり映画的であり、その特有性をアルモドバルと同様にハネケは活かす。クロースショット、様々なアングル、そして写真性の生々しさ。ブレヒトが異化で現実に喚起へと向かわせるよりも、映画には生々しさが輝くばかりにある。ハネケのテクストにはそれが表される。それまでの演劇概念と違うブレヒト以降の時代だからなのではなく、ロマンティシズムを失った20世紀だからこそ、人々は映画の生々しさに惚れ込んでいったのである、
  アルモドバルは『バチ当たり修道院の最期』、ヒッチコックではなく、まさにデパルマ・タッチ、それに対しハネケは、以下の如くである。納屋が焼けるシーンの後の少年との出会いは、現代ではありえないようなイーストウッドしたフロンティアが表されるかのようであるが、ここはよくよく考えれば、拡がりに向けた似非希望が描かれることないヨーロッパ現代社会なのであり、しかしながら、このSFのような異空間は現代ながらにして未来的なタルコフスキーなストイックなものを感じる。神話ではなくイストワールが歴史として現前するからこそ、緊張があるのだ。生々しさと写真性は現代だからこそ強くリンクする。

  ここまで観てきてアルモドバル、やはりスッと入っていけるのでいいのは『神経衰弱ぎりぎりの女たち』と『トーク・トゥ・ハー』であるが、それはさておいて、ストラクチャー的に『オール・アバウト・マイ・マザー』は面白さとても感じる。ハネケは『ピアニスト』と『隠された記憶』に奇妙さを残したまま留まっていたけれど、今回観ていくと、この時代だからこそ映画が在る意味を改めて考えさせられる。ストラクチャー的には『白いリボン』が強く印象に残る。『オール・アバウト・マイ・マザー』と『白いリボン』、近々再見したし。
  
 



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