『ライラにお手あげ』(The Heartbreak Kid:2007)
隣の芝生はよく見える、ってこと、ライラは可哀想、ってこと、男の我が侭勝手気まま、ってこと、男子側からの視点の作品だな、ってことが観終わってすぐの印象。そして、思ったよりエログロカワキモナンセンスではなかった。鼻からのぷしゅーは驚いたが、思っていたより、落ち着いていてワイルドではない感じである。しかし、よく考察すると深いかも、今回もファレリーブラザース。
ライラみたいにあれこれ言い訳して自身を保つ、こうした女性は多くいるし、対し、自身の理屈を正論と押し付ける主人公はイヤだなと思ったりするけど、これは客観的にみているからなのであり、違う環境で育った者同士(それも彼らはお互いをまだよく知っていない感じである)、男性主人公からすれば本当のとこ打ち解けていない相手が同じ屋根の下(ここではまず、同じ自動車の中から始まり)何時間もいればストレスも溜まってくるのだろう。そういった関係性のなか、ミランダが登場する。ライラは綺麗でも、新鮮なものにまた目移りする、人とはそういったものなのだろう。隣の芝生はよく見える。ライラは可哀想、と思ったりするものの、これはコメディ。それもレディファーストなふりをしながらもマッチョな男性優先の国のコメディなのである。
シリアスドラマで獣姦ならテーヘンだけれど、ラストの馬とのリレーションシップのリア充は、このテクストがコメディであることdo u understand?とさせる。Yes, I do。アメリカンムーヴィー的に主人公の成長物語。外のどこでもかしこでブチュー、でも主人公は古風な人、たぶんライラのアパートには入ったことないのだろう、彼は彼女を送り届けるだけ。観客だけにライラの実体を知らせないのではなく、観客が同一化する主人公にもまた知らせない設定である。そんな二人だから溝は生まれるはずである。それなのにマリアージュ、彼女は実体不過視な幻であり、彼はフェミニストというより双子が言うように◯◯的である。しかし、彼は男となる。人間性であり理性の訪れだ。ハネムーンで訪れたはずの自由な大地メキシコで彼はワイルドになる。開放感がフリーダムを生む。クラシックアメリカンと違って、不貞を戒めたりしない。
ファレリーズ、フェアリーに、イタズラんなアメリカンに充足感を与える。ローリングストーンな偶然とはいえ、彼は情動に正直に恋をする。イヤなものはイヤとストレートに云い、エドワードは一皮むけて髭ボーボーとワイルドになる。彼は恋にマッ正直にアメリカの壁を超え、入れなかったオンナの部屋に飛び込む。よく見える隣の芝生は人間心理において解放与える普遍的な逃避イズム、人間性のニヒリズムにラストもニヤリと笑わせる(私的には、あまり歓迎しないエンディングだけど、シネマだからよい)。
逃避イズムが開放感を与えること、それはシネマ性として当然OKである。解放与える逃避イズムはロックウェルもポロックもアメリカンに同じだ。ブラックに人間的なイヤなところもまたヒューマニズム、獣姦でリア充するライラと同一線上にいる。みんな、良いヒトなのである。“お人好し”はアメリカンしているが、アダムサンドラーはこうしたヒューマニティはNGだろうし、ジムキャリーは悲劇性やアホはOKでもヒネクレ系はお断りだろう。ベンスティラーとフェアリー兄弟だからこそなしえる今回のテクスト、“深イイ”のである。
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