図書館でミシマの『鍵のかかる部屋』と『橋づくし』、シンちゃんの『完全な遊戯』と『ファンキー・ジャンプ』をコピー。600円であった。ところで、イシハラのにはファンキーとついたタイトルがいくつかあるが、彼の造語なのだろうか。エイちゃんの造語かと思っていた。あるいは、Funkにイ〜〜〜とつけた造語なのではなく、字義通り、憂鬱ということなのか。『からっ風野郎』と『俺は、君のためにこそ死ににいく』をレンタル。ミシマは増村にシゴかれ家に帰ってくるとママ〜と母親に抱きついて泣きじゃくったんだというハナシ、友人から聞いたことあるのだが本当なのであろうか。ミシマの演技といえば『黒蜥蜴』の黄金人形しか見たことがない。なんかいま、ミシマに興味がある。憂國の言説にのっかってしまっているのだろうか。
『俺は、君のためにこそ死ににいく』がレンタル屋の棚になかったのでどこにあるかを店員さんに尋ねる。あまり人目など気にしない方だけれど、いかなるアダルトビデオをレンタルするときよりも今回は恥ずかしかった。ライトウィングや保守派に思われるのではないかとかなのではなく、タイトルを言うのが、である。誰のためにこそ死にに行くっんかい!? なんてお前はアツい奴なんだ! なにか隣の客からチラッと見られたような気がしたし、お店の人からはまじまじと顔を見られているような気がした。俺はKOOLでありたいが、シンちゃんは熱い。そう言えば、今日は憲法記念日であり、パッキャオとメイウェザーが戦った日なのであった。
母が挺身隊にいたときの話をたまにしていたが、ただ話を聞くだけで挺身隊がどういったものであるかがイメージできなかった。数年前のこと、友人が舞台で挺身隊の一員を演じた。視覚に入り、よく分かった。あのとき彼女はなにを思っていたのであろうか。今日は憲法記念日、パッキャオとメイウェザーが戦った日である。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
昭和天皇のことを扱ったTVプログラムで、ある方が昭和は前半は戦争で後半は平和に分かれると言っていたが、私は戦争、戦後、消費の時代と3つに分ける。私の定義する戦後は、もはや戦後ではないと言われた年に終わるのではなく、浅間山荘事件が起こり『太陽に吠えろ』が始まった年である1972年までを言うのである。消費社会の興りはまだいつかは定義していない。明日には、昭和は戦争と平和に分かれるのだと言い出すかもしれないが、今日のところはこの3つの時代に区切っておこう。明日には明日の風が吹く。太陽に吠えろっ!
『からっ風野郎』(1964)
根上淳が主人公のことについて、あいつはバカだから怖いんだよと言うが、三島演じる主人公には残念ながらそうした狂気のオーラは感じられないし、主人公は俺は脳が足りないと言うが、三島の大根役者ぶりも手伝って、それに関しては本当にフータンヌルい感じに見える。意気地なしなのに狂気を秘める系ひねくれ者を演じるのは三島には荷が重すぎる。アクターだってそうそうそうした役をこなせるもんじゃない。三島には荷が重すぎる。アクター/パフォーマーが持っているものも映像に滲み出るが、三島はたぶんとても素直なヒトなのだろう、なにも狂ってるめいたものが出やせんのである。しかしながら、たとえどんなであろうとも、このシネマにはミシマが在る。
“戦後”の像であるミシマが表される。動物のなかでも像にフェチるのは人間だけらしいが、“戦後”の像であるミシマが此処に表される。『鍵のかからない部屋』において、観念は戦争とともに死んだ、肉が遺ると言い表されるが、だからか、ミシマは筋肉ムキムキなのだろうか。彼は肉を纏った虚無なのか。もしそうであるのなら、虚無とはなにか。虚無とは中身のない虚栄や見栄をはった混沌を言うのか、それとも変幻自在のイマージュを言うのであろうか。後者にちがいない。
ミシマの終末感は、変幻自在のイマージュに富む。彼は無秩序の住人だ。それは素直に成されている。マスムラが『巨人と玩具』や『清作の妻』で表さんとしたことがミシマを通じて感光される。撃たれる、エスカレーターでのステップ、そのリズム、XTC。赤ん坊に渡そうとしたものと主人公が見つめるもの、まだ応えがないものがあるはず。彼が見つめる先にある未来は何だったのだろうか。変幻自在のイマージュが鍵がかかる部屋に無秩序にある。そうした自由を、この青春像は求めていたのではなかろうか。このガラパゴスで、その想いをフェチる。
『俺は、君のためにこそ死ににゆく』(2007)
愛国心を植え付けるではなく、靖国として、そうした者たちがいた、そうした者たちを忘れることなかれが表される。とても大事なことである。日本は母性が司る国であるかのように、トメさんを中心に、女性たちの悲しみがもののあわれとして蛍を紡ぐ。感情はとても大事なことである。消防隊の一糸乱れぬ姿を美しいとかつて言った知人のことをキモチワルいと思ったが、それはそれでキモくと思う心いまも変わらねど、貴様と俺とは同期の桜というものはやはり大事なことである。改めて思い出さしてくれることは多々ある。そうしたところ感謝する作品である。ところであるが、タイトルであるが、君主に対する当てつけのようにも感じられる。グレーゾーンな、日本的な言い回しにも感じられる。ところで、この作品を四文字コトバにするなら、「オレキミ」になるのだろうか。「オレキミ」みた?が若人の間で流行りになるのが怖い。
シンちゃんのことだから鬼畜英米っ!が表されるのだろうと思っていたらそうなのではなく、寧ろそれは完全に無視であり、恐怖を煽るプライベートライアンに比し暴力を煽るスペクタクルは、親分不在の殴り込みシーンに思えてきた。ここにはいかなる対象もいない。ただ、実存としての若者像だけが表される。この主体性はたぶん、製作総指揮のイシハラの意図に沿ったものであろう。それにしても、彼がみる自由がこの作品の若者たちに表されているのだろうか。戦時下の若者たちにもしかしたら自由あらわさているのかもしれないけれど、イシハラ自由像はたぶん、生き残った第二の石原裕次郎と、イシハラが描いてきたものに近いはずの人間像である窪塚洋介、彼らに表されているのではないだろうか。二人とも戦後を生き残る。
『完全な遊戯』はルポルタージュのようであった。反語的に、“遊戯”からモラルを引き出すハナシかと思っていたら、さにあらず。「オレキミ」と同じように、自由の存在たる実存がある。過激なテーゼのみが表されている。『完全な遊戯』は『冷血』の感情に生まれる偶然を扱っているようでもあるが、あの計画性はジャポネーズ的に、ズルさと聡明のグレーゾーンである。そして、グレーゾーンであるにもかかわらず、陰湿的なことに、戦後モダンにドライである。それがイシハラなのかもしれない。しかし、客観的にドライな描写であるがゆえ、見えるものは陰湿に感じられない。それがギラギラにイシハラなのかもしれない。
太陽族とは“戦後”をギラギラに生きねばならぬ者たちを言うことであったのか。それが戦後の日本人なのか?者たちに戦後という亡霊が憑依している。しかし、今までなんの疑問をも持たなかったのだが、なぜ『太陽に吠えろ』には、太陽がタイトルに使われているのだろうか。オレとキミは同期の桜、太陽の下に散るのは、陰湿的に乾いている。
このドライがなんなのか、ミシマが虚無に見つめるケアオスがなんだったかを知りたい、と同様にまだまだ探りたい。戦後とはなんだったのか、現在との照応を知るために。
ログインしてコメントを確認・投稿する