『嵐を呼ぶ十八人』 日活のあの作品のタイトルを拝借し客寄せパンダにしているのかのようにも思えたが、観ていくと、本家と違い現実はカッコよくもオシャレでもなんでもないのだ、というリアルを叩きつけることワザと意図してタイトル使ったのかと思わせてく
『うなぎ』 好感がもてる純愛物語系ハナシであり、終盤の警察署から出てきた役所広司と清水美沙が並んで歩くところ好い。けれど、やはりイマヘイらしいドロ〜ンとしたとこが満載である。オトコは、イマヘイがいつも表すように、ネットリしていても無駄口を語
『ろくでなし』日活モダンとも石井輝男モダンとも違うもの、なんだかコリオグラフィな動き、面白かった。 まつりごと、自由主義、資本主義、民主主義 飼い慣らされた世界、その現象でのエロスというもの、キジュ―は理屈っぽくならずに理屈を積み上げる。生
『三文役者』 ユーチューブで観た「素晴らしき仲間」では、神戸出身の江戸っ子らしく、もっと速いテンポで話をしていた殿山泰司である。しかし、映画のなかにおける彼はゆっくりとした話し方であり、竹中直人が体現化するのは、殿山泰司という“イメージ”で
『金環蝕』 総理のデシャバリ夫人、京マチ子がアッキーエを想起させる。イシューは違っても、現在という時代においてもチラつく問題である。政治は民のためではなく、富のために稼働する。政界と財界の癒着は自由主義の支柱を支える。 外側は金色でも中身は
『大脱獄』 10年ほど前から観たかった石井輝男作品であるが、そのときはソフト化されてなく観れず仕舞いであった作品である。網走番外地の再現的なとこもあっても、高倉健ヴァーサス菅原文太以外はあまり目立った評価がない作品だけれど、観ていくと、出会っ
天命反転意味のメカニック。バランスは己で意外を知るもの。世界は変わる。インテリであれパワフルであれ、マスムラであれイマヘイであれ、ヤミ市的エナジェティック生き様が表される。野村芳太郎(b19)、岡本喜八(b24)、増村保造(b 24)、石井輝男(
『浪人街』マキノ版に比し、よりルンペンプロレタリアート的になってるのは黒木的な現代性か。上層に対して不満を抱え燻ぶり遂には爆発する傾向映画的リベラル大衆性ではなく、かつては運動に身を捧げながらもなにも実現せず燻ぶり続ける怒りが、したいことし
『現代好色伝 テロルの季節』漏れる声、そして大石内蔵助の如きに目くらまし、或いは只のダラシネな生活。声は漏れる。団地という空間にハーレム、愛という背徳は無為に育まれる。無垢に研ぎ澄まされる。テロルはエロスに置き換えられ、その背中が姿に浮かべ
『八月の狂詩曲』リチャードギアが日本語喋ると、なぜか両手広げて笑顔で呼びかける「ハッチ―」に聞こえてしまう。『八月の狂詩曲』よかった。冒頭の方、オルガンを弾く青年と子供たちのコンチェアトー、どこかで黒澤は大林宜彦作品を気に入ってると言ってい
イマヘイは70年代はテレビドキュメンタリー、『未帰還兵を追って〜第一部マレー篇』(71)や『無法松故郷に帰る』(73)や『からゆきさん』(73;後年『女衒』をつくるにあたりこのリサーチは影響を与えてるはず)などのあと、79年に『復讐するは我にあり』
『女衒』 シリアスな緒形拳もいいが、拳はそもそもその人間味あるキャラが太閤記の頃からも滲み出ているのであり、冷酷なことをしでかすことのギャップが『鬼畜』以降からの魅力として発揮されていたのである。だからして、やはり太閤記に表されるようなサル
『天使の恍惚』 普遍性を有する。その時代だけのものとはならないのは、転覆させる対象である”目的”が常にイデオロギーであり、それが何かであるかは時代ごとに形を変えながら存在し続けられているからである。だからこそ、彼女が先に向かうところにエクス
『復讐鬼』 ノムラの八つ墓村だけでなく、イマムラのええじゃないかの源泉もこの作品にあるのかと思わせる。もっとも、この作品の源泉は豚と軍艦にあるように思えるのではあるが。68年以降においてさらに、アメリカでも日本でも、臭いものにも蓋をせず見えて
『拝啓総理大臣様』 拝啓天皇陛下様をレンタルしたつもりで観ていて、現代のシーンから過去へと展開されるのかな、と思っていたら途中、違う作品だと気づく。けっこうおもしろかった。アメリカ批判というより、アメリカにけん引されてしまった日本を批判した
『白昼堂々』 田川市に泥棒部落が実存したのか。それがモデルとなって原作が書かれたらしい。あの頃が華だったよなというところ、渥美清と藤岡琢也の関係性がやはり、なにか感動。人と人の間に生まれる情がなにか、押しつけがましくない程度に良さを生み出し
『キスより簡単』 女性の先鋭的自立性と通過儀礼と遊びじゃないのようふっふがエイティーズを渦巻いた東陽一と渡辺淳一を通過した、もうすぐナインティーズの時代に表される。女性の自立を描いてあると、とある本に書かれていたが、そういうことより寧ろ、商
『マンハント』『GONIN サーガ』を見始めたが、重そうなのでこちらの方が何も考えずに観れるかと変える。『GONIN サーガ』はショットひとつひとつが劇画を思わせるもので、石井隆はそれを狙ったのかな、となる。『マンハント』、『君よ憤怒の川を渉れ』そのま
正義の声を発するところは、なにかアメリカ映画的なヒューマニズムでいかにもだったけれど、公権力を笑い飛ばすやり方は日本的な土着的なものを感じた。三國連太郎って個性が強すぎて『飢餓海峡』も『利休』もどれもこれもこれまでわからなかったけれど、この
ストレンジ・デイズだけしか観ておらずハート・ロッカーもゼロ・ダーク・サーティも未見だけれど、ビグロー気になっていた。秩序がなくなる、論理がなくなる、と彼なりの正義を通したのだろうけれど、非道である。根本から考えさせられる。上司からキッド呼ば
『どん底』見当がつかない人生は羅生門からずっとある。黒澤には人の事が不憫にさえ思えないドライな人生観が表される。誰しも自分のことで一杯一杯だ。今村はドライに表されても、未練が物語を動かしてしまう。不憫と未練の違いが、黒澤と今村の間にある。作
都市空間と肉体の考察のために観る。ってのは嘘で、理屈ではなく、観たいから観る。これぞまさしく都市空間と肉体への思考である。 『蜜のあわれ』 あたいが見る鏡の断片に己が現れている。怖いもの、情を見ている。あたいは自分を見
へー、溝口にも宮本武蔵があるんだ、と知りグーグると、なんとも酷評、でもって抱腹絶倒らしい。こういった世間から相手にされない呪われた映画は気になるが、製作されてから50年経っても、カイエからも映画芸術誌からも再評価もされていないのだからますます
左と右だけでなく前衛も後衛も分からなくなった70年代にヤマサツは志を反映させる作品を大作として数多くやったこと、凄かった。『皇帝のいない八月』、黒澤が悪い奴ほどで上の者は常にふてぶてしく生きていき、天国と地獄の下の者の憤り、今村の安保闘争のあ
どですかでん、かつて観たときは、かつての黒澤作品に比して、観念的すぎて芸術映画気取りで、いつ終わるのかとヘロヘロだったように記憶するが、今回は見いちゃった。面白かった。伴淳、やはり上手いなぁ。客を連れて家に帰ってきてからのあの長回しの切り取
『処女ゲバゲバ』の望遠鏡に見える乳房には、慈愛が表されていたのか。消えることなく、その有様として存在し続け、慈愛に痛みが感じられている。『聖母観音大菩薩』の八百比丘尼は悲しくはない、痛いだけです、と言うが、慈愛永劫に未来には痛みのみが残りゆ
コミック映画なんていらない!自己諧謔的にジャポネをバカにするオープニングからエッフェルの真下の回転ショット、螺旋する覗きカラクリに連れ込まれる様のよう。ノワールの温床の地である巴里を舞台にした、ファムファタルに翻弄されるフィルムノワール『エ
中村倫也ロスする以前に、中村倫也が登場するところにすら到達していないのだが、そもそも豊川悦司のところで働き始めるところにも到達していないので、しょうがないから高嶺の花の第一回を観る。峯田あまり上手くない。石原と芳根の共演は貴重である。ふたり
殿山泰司、クロサワのにもイマヘイのにもワカマツのにも出ているのか、、そんな感じは全くもってしていたが。『三文役者』久しぶりに観たくなる。殿山泰司、裸の島の印象からか、それに彼が出演してる多くの作品からも感じるもの、ほとんど言葉を発しないイメ