『お嬢さん』と『サマリア』観た。同じニューヨークでもスコセッシとウディアレンが全く違うように、同じセンセーショナルでもキムギドクとパクチャヌクは全くタイプが違う映画である。でもギドクとチャヌク、いまずっと観ていたときのを思い出していくと恨と
カーウァイとミンリャンのボックスを開く前に、予習的に張芸謀や侯孝賢を観ているが、新鮮に感じられども、飽きが来る前に本来の目的であるカーウァイとミンリャンの前衛的なスタイルを観なければならない。思えば、家衛と明亮には家族社会、地域社会といった
タオシャオピン、、。 下手な中国語を使うのはよそう。トーショーへ―は総書記になっていなかったのか。彼はフィクサーだったのか、ってよりも先に豊かになれる人が豊かになる理論は誰でも知ってるから、彼が権力を掌握していたのは誰にしもポピュラーであ
『冬冬の夏休み』 オズ ミーツ トリュフォーでは決してない。トリュフォー ミーツ オズである。子供と彼らが触れ感じ生まれゆる彼らの世界は淡々と表される。素朴なその世界は観察されるように、市井の言葉が掬い取られるように表される。そのように表され
『初恋のきた道』 チャン・ツィイーが注目された作品なので、どういう風に描かれているのかと気になった。爽やかなエキゾティズムなのかと思ったら、待ち伏せなんかプランする、ちょっと軽くトラウマを残させるかのようなストーカーだったから、思っていた
『グリーン・デスティニー』アン・リ―が繰り広げる武侠片。公開されたときはハリウッドが手掛けた功夫映画だと思っていたが、いま『HERO』『LOVERS』『PROMISE 無極』を見渡せば、コン・リンがその後に中国をハリウッド化する作品群の序章だったのかと理解す
『さらば、わが愛/覇王別姫』 観る前に特典映像のレスリー・チャンのインタビューをみたら、彼が演じる程蝶衣は悲劇の連続だと言っていたけれど、確かにこれでもか、と言わんばかりにそうである。しかし、かつて観たときの記憶として残像するものは艶やか
『活きる』 絵を重視するカイコ―に比し、ヒトの気持ち、気分の顕われ、それもその素朴な現れをイーモウは重んじる。それゆえ、運命あるいは歴史に翻弄される人間といったもの、それが表象化されることはない。人間という形象しか彼が描く世界にはない。生の
キムギドクとパクチャヌクを観ていっていたけれど観ていないのではサマリアやお嬢さんが気になるけれど、これらの韓国映画もまた気になる。 キム・ギヨン 『下女』『お嬢さん』はキム・ギヨンからの系譜もあるのかな?ハウスメイドが主人を破壊するギヨンの
香港 愛のカケヒキトレーラーみると、コールディーホーン、ジュリアロバーツ、キャメロンディアスなんかの系譜のラブコメのパクリにしかみえないけれど、パン・ホーチョ
ブルースリーもジャッキーチェンもカンフーパンダもこうしたものも全てクンフー映画というのだと思っていたけれど、武侠片というジャンルがあること最近はじめて知った。道士下山ワンダー・ガールズ 東方三侠残酷ドラゴン 血斗竜門の宿
『恋する惑星』かつてはこの作品と『愛情萬歳』をイヤというほどみせられた。しかし、当時はあまり理解できなかった、というよりピンとこなかった。今回はカメラアイがラジオにハンドヘルドでスカッと近づくラストのショット、そこにおいてドッと感動する。窃
『西瓜』都市ないし現在という現実を代理する空間、カーウァイにおいては夢が形づくられるが、それに比しミンリャンはもうひとつの現実においては夢のなか、哀しみ隠しけれずに生きる人々を表す。現実を代理する虚なる都市では、恋しているにもかかわらず、相
大人買いする。まったく分かるよりは、分からないけど分かる或いは全く分からないからちょっと入っていこうぐらいが飽きはこない。全く拒否感はもちろん入っていけない。生理的にダメという場合であるが。それに、その作家の作品を集中して観ていってもパター
チャンイーモウの演出おもしろかったな。前の中国でのオリンピックも彼がやったのではなかったかな。イーモウもカイコ―も『さらば、わが愛/覇王別姫』(93)や『活きる』(94)からしか分からないけれど、このころの作品は文革批判的なところが表されていた
悲情城市も恋する惑星も欲望の翼も愛情萬歳もHole-洞も花様年華もフラワーズ・オブ・シャンハイも選ばれてないのか、と思ったら、今世紀に入ってからのですか。藍色夏恋知らなかったけれど、とても気になる。 10 great Chinese-language films of the 21st c
おっ、コン・リーが出てんだ、と彼女が出たときは驚いた。久しぶりに観る『2046』オモシロかった。かつて観たときは確か寝た。寝たにもかかわらず、大スターを集めすぎて収拾がつかなくなった印象であった。失礼であった。収拾がつかなくなった、なワケがない
私のアジア映画のモードもそろそろ終わろうとしている。なぜならば、レンタル屋に行ってもちょびっとしかアジア映画がないないからである。福岡は他のアジア文化をどしどし取り入れるというが、確かにエクスペリメンタルミュージックもコンテンポラリーダンス
Step-printingっていうの初めて知った。カーウァイのあの部分、テレビの再現ドラマっぽいぐらいにしか思ってなかったのだ。ハイライトモメント オブ 西瓜相変わらず表象的すぎるなミンリャン。アレナニ?みたいなエンディングは衝撃的であったが、観ながら
『楽園の瑕』かつては英語の字幕で観たせいで理解できなかったのか、武勇伝をただまくしたてるだけで終わる映像羅列に思い出される作品であったが、久しぶりに再見すると、情感がジワッと溢れてくる味わい深き作品であること受けとめる。カンフーアクションを
『百年恋歌』エドワードヤンのテクニカル的斬光きらめく写し絵とちがい、ホウシャオシェンは日常を写し取り繋げてゆくこと、淡々として風情におちいらせることはなく、それは寧ろ、映画と我々オーディエンスとの関係性(ノエシス)のなかで穏やかな流れに悲喜
『エンドレス・ポエトリー』ホドロフスキーが言う、その存在は完全な光。その光はスクリーンに灯される光であり、またそれを超えた生命そのものとして存在せしめられる。『リアリティのダンス』が回りがよく分からずにいながらにしておまけに抑圧を受けてしま
『あゝ、荒野』前篇街の喧噪に潜む阪本順治的なオフビートな間合いと常にアップデートする闘争力、園子温的な集団心理的&社会的ビョーキ、三池崇史的な社会をゆがめる/活性化させる歪んだ人間関係性&個人の在り方をまんま継承しているかのような、なにかミ
『キングスマン』思ったよりも残虐に充ちていたけれど、考えれば、いつもの未成年にミレニアムあらわされながらにしてクルエルするマシューヴォーン印なのであり、ナットクする。MI6に所属するスパイが持つ物腰柔らかセクシズムと大人の渋味なダンディズムと
『グランド・マスター』群像劇にして絡むようでからまずオチがないような展開、やはりウォンカーウァイらしい。チャンチェンの存在とはなんだったのか、歴史という生の世界において、トニーレオンの義にコントラストされる血として存在するのか、ってよりも、