川上未映子の『乳と卵』を読む。
今年の芥川賞の受賞作である。
“乳と卵”、チチトランと読む。タマゴではない。
この意味よりもリズム重視のタイトル、文章もこの風が利いていて、リズムに乗せられて、なかなか句点で切れない長文は、大阪弁のしゃべりである。
論理性やレトリックではこの文章に首を傾げるかもしれないが、このリズムと長文は、大阪弁の文化の中で有機的な融合を果たしている。
そういう意味では、英語等への翻訳はちょいと難しいのではないだろうか。修辞関係がきちっとせず、主語述語の対応が明確でなく、切れるかと思うと切れず、何とはなしに意味が繋がっていて長い文章の繰り返し。
日本人でも、こういう文章を理解できない人、許せない人はいるかもしれない。
似ていると言えば、野坂昭如の『エロ事師』等の文体に大変よく似ている。野坂のこれもそうだが、やはり大阪弁の中に溶け込んでおり、大阪弁でなければ、この長文は無理があるように思う。
その証拠に、この単行本には『あなたたちの恋愛は瀕死』という受賞後第1作の短編が併載されていて、同じような長い文体が標準語で連ねられており、これはちょっと読むのが苦しい。『乳と卵』の関西弁で気にならなかった、修辞や主述の不明確が、これでは気になって、意味不明で長々とした文章を乗り越えていかなければならない。
この違いの秘密は、大阪弁というものの文化の中に潜んでいるように思う。ロジカルな説明は難しいが。
川上未映子はまだ書き始めて数作目で晴れの舞台に引き摺り出されてしまったが、文体はまだ模索中という感じで、固まっていない。きっとこれから苦労するに違いない。
タイトルの”乳”は豊胸手術願望にはまった母親(語り手からすると姉)と、”卵”は初潮という身体の変化に着いていけない娘、その2人の断絶感が物語のキーになっている。
極めて年齢的で肉体的な出来事が、心の問題に変容し影を落として、コミュニケーション不能に陥る。娘は己の存在を拒否し、しゃべりを拒否し、声でなくノートに筆談という形でやっと内を表わす。決して母親を嫌悪している訳ではない、自分の変化が厭で、自分の価値が判らない。自分が肉体の変化において悩んでいる時、母親は肉体に変化をもたらそうとしている。母親も豊胸へのこだわりを理解させる術をしらない。娘が何故声を出さなくなったのか理解できない。
この親子が、東京に就職の為に出てきた母の妹(語り手”わたし”)の所へ夏休みを利用して遊びにくる。母親には手術する病院の確認という気もある。ある日、病院の下調べと言って、”わたし”のアパートに娘を置いて出掛けていくが、いつ迄経っても帰って来ない。心配している中、夜遅くへべれけになって戻ると、別れた夫(娘の父親という訳だ)と会ってきたと言う。
母親と娘の間に一悶着起こらない訳がない。
こんなやりとりを、”わたし”の目を通して語りながら、そこに娘の筆談ノートが交わる。
勿論”わたし”は神や解決者の役割を担う訳ではない。神でない、この世の地面に立つ”わたし”は、姉(母)の本音も姪(娘)の本心も判らない。そういう関係にあって、筆談ノートの存在はなかなか巧妙だ。ここに書かれた事は事実であって、神の解釈ではない。
しかし事実であったとしても、娘の言葉の書き連ねに真理がロジカルに提示されている訳はないのだ。娘の筆談はやはり大阪弁であって、書き言葉でも、修辞関係、主述関係、そのまま同じである。
不理解の中で感情の爆発は起こるべくして起こり、娘は久し振りに声を発して泣き喚く。冷蔵庫にあった賞味期限を切れた卵が、2人の間を飛び散る。
だが、それが解決や共通理解を導き出したかどうか、本当のところは判らぬまま、翌日2人は大阪へ帰っていく。
どう考えても、大阪弁こそがこの小説を有機的に統御しているのであって、標準語でそれが適うとは思えない。川上が今後苦労すると思う所以である。
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