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2026年01月23日11:05

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ゴッホ展〜家族がつないだ画家の夢/愛知県美術館��/end

(続き)

次に、フィンセントの3人の家族について、その概要を記す。

・弟テオ、本名テオドルス・ファン・ゴッホ(1857-91)
フォト

写真撮影時期は不明。

1873年、15歳で美術商グーピル商会のブリュッセル支店で働き始め、ハーグ、ロンドン勤務ののち、1879年よりパリへ。
印象派始め当時の前衛美術にも関心を持ち、兄フィンセントの芸術観にも影響を与えた。
1889年4月、ヨーと結婚。
フィンセントを経済的・精神的に支え、彼の作品・コレクションの大部分を保管した。
1891年1/25、兄の死の半年後、33歳で死去。
フィンセントとテオのコレクションは、妻ヨーと生まれて間もない息子ウィレムが相続。ウィレムが21歳になる迄は、ヨーが全てを保管した。

・義妹ヨー、本名ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862-1925)。
フォト

テオの妻。1889年にテオと結婚する前はオランダで英語教師や翻訳家として働いた。美術に対する素養はなかったが、結婚後造詣を深めた。
写真は結婚当時27歳のものとされている。

1890年5/17、ヨーはテオに連れられ、息子ウィレムを抱き、フィンセントとパリで初めて会った。

前日にフィンセントはサン=レミのサン=ポール=ド=モーザール療養院を退院したばかりで、ヨーは病み上がりの姿を想像していたが、逞しく健康な様子に驚いたという。
ヨーはフィンセントの多数の自画像の中で、数年前に描かれた《画家としての自画像》(1887.12~88.2)の姿が、この出会い時の印象に一番よく似ていると回想している。
レポート�,遼粗�に貼付した本展チラシが《画家としての自画像》の部分である。
フィンセントはパリでこの自画像を描いたのち、テオの下に置いてアルルへ移った。
フィンセントがアルルで書いてヨーに送った手紙には、この自画像について「ピンクがかった灰色の顔」は「生気がなくこわばっていて、赤ヒゲが伸びたままでもの悲しい」としている。
フィンセントとヨー、2人の意見は異なっているものの、パリ時代終盤に描かれたこの自画像は、2年間の集大成と言うべきもので、パリで身につけた印象派風の筆遣い、補色を隣り合わせに置いた効果的な色彩表現など、素晴らしい出来である。

1891年1/25、夫テオ没。2年に満たない結婚生活だった。
ヨーは、フィンセントとテオの全コレクションを保存・管理する立場となり、それらを世に出し、作品評価を引き上げるべく奔走。その目的のため、作品を展覧会に貸し出し、販売も行った。

本展に展示された「テオ・ファン・ゴッホとヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルの会計簿」(1889-1925)には、食料品の購入など日々の支出に加え、テオからフィンセントへの毎月の仕送りや画材代も記録されている。
テオの死後はヨーが引き継ぎ、フィンセント作品の売却(何を、いつ、誰に、いくらで)の詳細も記録した。これは、のちのゴッホ研究に極めて貴重な資料となった。
例えば、本展に展示されている《モンマルトルの菜園》(1887)は、1914年4/6、12,000ギルダーで売却となっている。興味深いけれども、これが現代の円でいくらに相当するのか、私には分からないのが残念だ。
原題に至って「会計簿」の調査・研究は更に進み、ヨーが売却したもののうち170点強の絵画と44点の紙作品が具体的に何か特定されている。

1905年、ヨーは、470点強の作品でゴッホ回顧展をオランダで開催。この大回顧展はフィンセントの評価を確立する礎となった。
1914年には、膨大な手紙を整理し、『ファン・ゴッホ書簡全集』として出版。
テオの望みに従い、亡夫の墓を、フィンセントの眠るオーヴェール=シュル=オワーズの墓の隣に移す。
1924年、ロンドン・ナショナル・ギャラリーに《ひまわり》を売却。これによりゴッホの名声は確固としたものになった。
ゴッホは花瓶に活けられた《ひまわり》を生涯に7点制作している。ロンドン・ナショナル・ギャラリーに売ったのはその4番目、1888年8月に完成させたもの。ちなみにSOMPO美術館が所蔵しているのは5番目で1888年12月~89年1月に制作したものだ。
1925年9/2、ヨー死去。62歳。

・甥フィンセント・ウィレム、本名フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(1890-1978)。
フォト

写真撮影時期は詳細不明だが、最晩年のものである事は間違いない。

1890年1/31、テオとヨーの息子としてパリで生まれる。
1925年、母ヨーの死によって、フィンセントとテオのコレクションの全てを相続。この時35歳。
その後、売却はとりやめ、コレクションを散逸させないために尽力する。
1960年、フィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立。
1962年にはゴッホ家が受け継いできたコレクション(200点強の絵画、500点を超える素描・版画)の所有権の殆どを財団に移譲。
財団は、コレクションを美術館に永久貸与する事を約束し、アムステルダム市から土地の提供を受け、オランダ政府が美術館を建築する運びとなった。
こうして、1973年、遂に国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館(現ファン・ゴッホ美術館)が開館した。
1980〜90年代には、寄付や寄贈の恩恵を受け、ゴッホと関係のあるバルビゾン派や象徴主義の作品の購入が進み、美術館の所蔵品は増えていった。その後も、印象派、ポスト印象派の作品など、重要なものが加わっているとの事である。

3人の家族の貢献がなければ、ゴッホ作品は多くが失われ、彼の名声も今日程高くはなっていなかったに違いない。
そうした事がよく分かる優れた展覧会であった。


〈付記〉
愛知県美術館では、展示室5〜8で「2025年度3期コレクション展」も観た。
・会期 1.3〜3.23
 
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