(続き)
第四章 戦火の下で――疎開と終戦
戦時中の松本家
松本家の疎開
孤軍奮闘の竣介
終戦――敗戦
占領への恐怖
出版事業への飽くなき挑戦
混乱を極める社会情勢
私の国民学校入学と松江の生活
…戦時下から戦後にかけて、竣介と疎開した禎子及び子供達とが長く分かれて暮らした事は前ページ�,遼粗�で触れた。
第五章 再出発――洋子そして竣介の死
美術界再生への提言
絵画制作の再開
難航する家族の引揚げ計画
松江から、父竣介のもとへ
フランス行きの夢
長女洋子の死
父竣介の死
…終戦から半年も経たぬ1946年1/1、33歳の竣介は美術界の再生、そのあるべき姿について檄文「全日本美術家に諮る」を自費で印刷し、全国の美術関係者に宛てて発送した。
以下に文の一部ピックアップする。
「いつでも自由に作品を発表することが出来、自由な討議から自然に流派の発生するやうな、更に美術家の生活も相互の力によって支持して行くことのできるものとして、美術界の基礎組織となる日本美術家組合を結成すべきだと思ふ。試みに次の如き方針をたてゝみた。御一考を願ひたい。
一、画家、彫刻家、工芸家、建築家、批評家、美術愛好家等によって結成されるものとする。
(中略)
敗戦して、美術家としての在り方も実に複雑だ。戦争犯罪者として連合国から指摘されるものもでてくるかも知れぬ。国民としての立場から指摘されねばならぬ場合もあらう。責任を問ふならば、権力の前にはほゝかむりで通してしまつたものにもやはり責任はある筈だ。芸術家は政治の実際には迂遠であるといつても、芸術家としての直感でこの戦ひの裏面に喰ひ入り、敢然とした態度のとれなかつたことは恥ぢていゝことだ。戦争画を描いた描かなかったといふやうな簡単な問題ではない。『臭いものには蓋』式の態度はこれからの我々は絶対に排さなければならぬ。自らの肉を衝き、骨を削る態度をもつて、こゝ幾年かの日本の美術界の動きを研究し、究明して、すべての事情を明確にすることが必要だ。誤謬の上に築かれたものは、それが如何に正しく見えようとも偽物だ。その為には一切を正直に語り合はうではないか。それのできる自由な機構をわれゝゝの手で作らうではないか。先輩諸賢への無礼も省みず敢て右の如き一文を草する所以である」。
竣介の大胆な行動に驚くが、期待したような積極的返事は少なく、美術界の理想を求めた呼びかけは花開く事なくついえてしまった。
…疎開から家族が戻った1947年の10月、長女 洋子が死んだ。尿毒症ではなかったかと言われている。
翌1948年2月、次女京子が誕生するも、6月、竣介は結核のため死去。36歳という若さだった。
第六章 禎子の戦い――遺作と遺産
主のいないアトリエ
竣介の死を悼む仲間たち
故松本竣介遺作特別陳列と『松本竣介画集』の刊行
鶴岡政男《夜の群像》と幻の一〇〇号作品
困窮に立ち向かった禎子
手元を離れた作品たちと禎子の仕事ぶり
竣介の遺産「結核」の決着まで
…俊介の死後、家を訪れたのは親しい友人らだけではない。ハイエナのような輩もやってきた。困窮の中、禎子は必死になって夫の作品が散逸するのを防ごうとした。
友人らは、展示会や画集発行のため尽力してくれた。
…竣介の結核菌は、莞と京子の体にもうつっていた。
2人の手術と療養の資金のため、禎子は働きに働く。
実は禎子にも結核はうつっていたのだが、禎子のそれは、彼女が猛烈に働くうちに治ってしまった。
第七章 竣介を識る旅――美術館と画廊の人々
神奈川県立近代美術館での初回顧展
画商との出会い 兜屋画廊と南天子画廊
朝日晃という人
「松本竣介記念室」と畑山昇麓との因縁
叔母松本栄子のこと
ついに戻らなかった《運河風景》
竣介にとりつかれた男・大川栄二
禎子の「綜合工房」
私の盛岡、そして上田浩司
大川栄二、美術館をつくる
節目となった二つの回顧展
間違いが広まること
新しい「竣介像」を拓く展覧会
…これも前述した通り、没後10年の1958年、神奈川県立近代美術館で竣介の初と言っていい個展が開催された。
まだ評価の定まらない竣介の展覧会開催を自ら希望し尽力したのは、同美術館に務めて3年目の朝日晃(1928-2016)だった。所在不明品の多かった竣介の作品リストを彼は徹底的に追及して成し遂げた。
朝日は俊介と佐伯祐三の研究家として知られ、亡くなった時、広島市現代美術館副館長だった。
…大川栄二(1924-2008)はダイエー創業者の中内功の下で同社を日本一のスーパーに押し上げた実業家だが、竣介作品を気に入り初のコレクターとなった。美術については無学で、自分の感性に従って収集を続けた。
数千点となった彼のコレクション、その核となったのが竣介の約70点だった。
1989年、彼は郷里の桐生市に大川美術館を自費で建てオープンさせた。この建築設計の中心的な役割を莞は務めた。
大川が当初美術館の理事長兼館長を務め、2008年に没したあと館長を務めているのが、今年3月に大山崎山荘美術館で講演をした田中淳である。
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…第六章の目次にある「間違いが広まること」とは何か?
禎子が嫌ったのは、一部の人間による間違った竣介評である。掲げられているのは2点。
1つが宇佐美承著『求道の画家 松本竣介 ひたむきの三十六年』(1929/中央公論新書)。
禎子はこの書の誤りを指摘し、膨大な付箋をつけて中央公論社に抗議をした。が、重版の時に訂正・削除をするとの約束のまま、絶版となってしまった。
もう一つは「松本竣介を支え続けた友人 畑山昇麓コレクション展」(2004/萬鉄五郎美術館)。
畑山は竣介の同郷人だが、実態は殆ど交流がなく、終戦直後、盛岡での展覧会のために竣介作品を持ち出し、我が物顔で扱った。
千葉瑞夫館長(当時)に申し入れをしたが、展示キャプションや図録の撤回・回収は行われなかった。
事実と異なる事柄の流布は、遺された親族にとって堪らないに違いない。
本書は、松本俊介の正しい歴史と評価に大いに役立つ筈だ。
以下、目次の続き。
あとがき
松本竣介 関連年譜
松本竣介 関連系図
収録作品一覧
…これら付随資料は、竣介研究者には大いに役立つ。
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『父、松本竣介』
執筆 松本莞
発行 2025年1月、みすず書房
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