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2025年05月21日13:00

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特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」��

(続き)

1792年、蔦重は筆禍続く戯作界から距離を置き、浮世絵に仕事をシフトする。浮世絵は大量生産できコストが抑えられるというメリットもある。

蔦重版元作品というとやはり浮世絵、殊に美人大首絵のイメージが強いのだが、彼がこの判断に立ち至ったのは、実は43歳、彼に残されている日々はあと5年しかない。
ここで彼が満を持して世に押し出したのは北斎でなく、歌麿(当時40歳?)の美人大首絵だった。
《婦人相学十躰》及び《婦女人相十品》。下は、後者から〈文読む女〉(1792-93)。
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それ迄専ら美人画で描かれていた全身像よりも、大首絵(半身像)は顔の特徴や表情の違いを描出する事ができ、歌麿にうってつけだった。世間からは忽ち人気を得た。
本作のモデルは眉を剃り、鉄漿(おはぐろ)をしているから既婚者という事になる。目の高さ迄持ち上げて見入っている手紙は自分宛か夫宛か?それが分からないだけに、絵を観る者はついモデルの心情を想像してしまう、そんな煽情性を隠し持っている。
人物を浮き立たせるため無背景とし、更に高価な「雲母摺」を用いて、華やかさを増した。
同シリーズ〈浮気之相〉は重要文化財指定となっている。

1793~94(寛政5~6)年、44~45歳に至る蔦重は、同じ歌麿の《江戸三美人 富本豊雛 難波屋おきた 高しまおひさ》刊。
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単に《高名三美人》と題された同類の作品(1793)もあり、こちらは重要美術品指定。
この連作の大ヒットに対し、幕府は、蔦重をターゲットとして、一枚絵に女の名を入れる事を禁じる町触れを出した。
蔦重は名前を削る対策をとったが、歌麿はそれが気に入らず、1795(寛政7)年、版元を新規参入の近江屋権九郎に移し、「判じ絵」の手法で対抗した。
「判じ絵」については、�△謀宿佞靴織螢鵐�にその図例あり。

出し抜かれた幕府は、1796(寛政8)年、「判じ絵」を入れる事も禁じる策に出た。幕府のターゲットは、当然蔦重から歌麿に移っている。
歌麿は版元を次々移し、様々な美人画を描き続けていく。版元 若狭屋与市の《婦人手業操鏡》シリーズ(1798-99)では美人というタガから出て、働く女性の日常の姿を描く。
1800(寛政12)年、美人大首絵の出版自体が禁じられた暁には、歌麿は《山姥と金太郎》のシリーズを描く。
「山姥」は「美人」でもないし、どだい「鬼女」は「人間」でもないとの理屈だが、野蛮味のある山姥(はだけた胸ボサボサの髪)は肉感的で、金太郎との関係も不自然なエロティシズムを感じさせる。

1793(寛政5)年7月、松平定信老中退任。

1794(寛政6)年、45歳、歌麿との関係に限界を感じ始めた蔦重は、その他の絵師との協業も試み、そしてこの5月(第一期と呼ぶ)、東洲斎写楽(1763?-1820?)の役者大首絵、大判28枚を一挙に刊行する。
客の反応を見ながら少しずつ出していくというのが一般的な商売のし方で、これは極めて異例。何処のウマノホネかも分からぬ写楽である。
7〜8月(第二期)には全身像大判8枚と細版30枚、11月(第三期)には大首絵間版11枚、全身像細版47枚、翌1795(寛政7)年初(第四期)には全身像細版10枚。

僅か10ヶ月で130点超の作品を世に出したのは、役者絵版権の独占を目論んだ蔦重だったが、和泉屋市兵衛版の歌川豊国など、他の急追もあり、狙いは達せられなかった。
そして写楽は忽然と消える。

世間への衝撃は大きかったが、美化せず役者の欠点迄も描きだすその手口は、役者ファンや役者自身から不評を買い、出版は長く続かなかった。
しかし、これらから現在19点が重要文化財、5点が重要美術品に指定されており、「ジャポニスム」なるものを含むグローバルな評価も、写楽なしでは違ったものになっていた可能性がある。

下は第1期より大首絵大判《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》と《初代市川男女蔵の奴一平》。共に重要文化財指定。
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歌舞伎『恋女房染分手綱』の「四条河原の段」、御用金を奪わんとする江戸兵衛と対決する奴一平の緊迫した場面。一平には悲壮感も漂う。
この2枚は互いに睨み合う組物として観るべきだろう。

次は第二期より二人全身像の大判《三代目市川八百蔵の不破の伴左衛門重勝と三代目坂田半五郎の子そだての観音坊》。重要美術品指定。
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これは雲母摺りだが、第二期作品は比較的低コストの黄潰しの細版が多い。
役者の表情も、第一期の抉るようなデフォルメから少し抑えたものとなっていて、蔦重は購買層を拡げようとしたのかもしれない。

大田南畝は『浮世絵類考』(1941)の中で、写楽につき「歌舞伎役者の(中略)のあまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む。」と書いている

同じ1794年、のち『東海道中膝栗毛』(1802-14)が大ヒットとなる十辺舎一九(1765-1831)を耕書堂の食客とし、店の手伝いをさせる。
1795(寛政7)年、46歳、写楽を失った蔦重は歌麿との関係修復にも力を入れるなど悪戦苦闘の日々。

1796(寛政8)年、47歳、秋頃より体調悪化。

1797(寛政9)年、48歳、5/6没。
馬琴によれば死因は脚気だと伝えられる。
レポート�,脳匆陲靴薪貔�草の正法寺に葬られた。

一方の歌麿は、蔦重の死後7年、1804(文化元)年5月、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした《太閤五妻洛東遊勧之図》(大判3枚続)により幕府に捕縛され、手鎖五十日の処分を受ける。
これ以降歌麿は病に伏し、1806(文化3)年、54歳で死去。

ちなみに歌麿より7歳程若い葛飾北斎は、1814(文化11)年に版元 永楽屋東四郎から《北斎漫画》初編を出版開始、《冨嶽三十六景》の発行は版元 西村屋与八により1831(文政14)年になってからである。


最後に、本展の構成を示しておく。

◆第1章「吉原細見・洒落本・黄表紙の革新」
・「吉原で生まれた蔦重」
・「平賀源内との出会い」
・「吉原細見:顧客視点の原点」
・「一目千本:出版活動の開始」
・「雛形若菜の初模様:大型企画への参加」
・「富本正本・往来物:蔦屋を支える商品」
・「戯作界へ乗り出す:朋誠堂喜三二との出会い」
・「見徳一炊夢:太田南畝に見出される」
・「黄表紙の流行、日本橋通油町へ進出」
・「人気作家 山東京伝を売り出す」
・「寛政の改革による筆禍」
・「戯作者 蔦重の仕事」
・「曲亭馬琴・十返舎一九の起用」
・「武者絵本・書物・俳諧絵本・読本:自粛ムードから新たなコンテンツへ」
◆第2章「狂歌隆盛〜蔦唐丸、文化人たちとの交流」
・「狂歌師たちのネットワーク」
・「狂歌師 蔦唐丸」
・「狂詩本・狂歌本」
・「狂歌本:歌麿の才能開花」
◆第3章「浮世絵師発掘〜歌麿、写楽、栄松斎長喜」
・「喜多川歌麿:美人大首絵で一世を風靡する」
・「版元 若狭屋与一」他…村田屋治郎兵衛,伊勢屋孫兵衛,近江屋権九郎,鶴屋喜右衛門
・「画家 鳥居清長」他…勝川春潮,北尾政美(鍬形�澪�), 窪俊満
・「栄松斎長喜:新たなトレンドの創出」他…勝川春朗(葛飾北斎),勝川春英
・「東洲斎写楽:役者絵独占の野望(第1期〜第4期)」

展示総数全258点、内重要文化財27点、重要美術品13点。


[参考資料]
NHK-Eテレ「日曜美術館」『蔦重と歌麿・写楽・北斎』
解説 浅野秀剛(大和文華館館長)
   田辺昌子(国際浮世絵学会常任理事)
ディレクター 秋山路子
放送 2025.5.4

図録『特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」』
 執筆 松嶋雅人,長倉絵梨子,村瀬可奈 他
 発行 2025.4.22 NHK,NHKプロモーション
 
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