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2025年02月06日11:00

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「最後の講義 選」『生物学者 福岡伸一』��

(続き)

◆[3]命に刃を向けた人間。

生命は機械ではない、しかし、人間には機械論的生命観がすっかり沁み込んでしまっている。
小さい子供が描く「頭足人」。目,鼻,口,でできた大きな顔、そこから直接に飛び出た手足。
これは、たった4歳の子供が、既に機械論的な生命観に染まってしまっている事の証である。
人間はパーツでできているという認識だ。

しかし、この考え方が間違いだというのは、次のような実験の試みをすれば明らかだ。
天才外科医のブラックジャックみたいな人がやってきて、AさんからBさんに鼻を移植しようと考えたとする。
Aさんからどういうように鼻を切り取れば、鼻という機能をBさんに移植する事ができるか?
鼻というのは、穴の奥の方の天井に嗅覚上皮細胞というのがあって、そこで匂い物質を感知し、その信号を脳の奥に運んで初めて匂いを感知する。匂いの機能だけでもなかなか難しい。
だから、他の機能を全部含めてようやく「鼻」なるものだと考えると、結局、体全体からあれこれ数千もの部品を持ってこないと鼻の移植はできない事になる。しかも機能と機能はプラスマイナス複雑に絡み合い、多種の副反応も起こり得る。
つまり、我々は部品でできていると単純に思うが、実はそれらは皆つながっていて、互いに補い合う関係を持ち、ようやくひとつの体として機能するので、何かパーツを一部切りだすという事も殆ど不可能なのだ。
「生命には部品はない、生命には部分はない。」

人間が生命を機械として捉えると、更に怖い事が起きる。
福岡は警告する、生命が連鎖する地球環境から人間がリベンジされた例がある。
「狂牛病」だ。
狂牛病とは、牛の脳がスポンジ状になり、牛が異常行動を起こす病気で、1986年、英国で発生した。
あとから分かったが、原因は牛のエサだった。

牛のエサって何?
牛は草食動物なので、牧場で草を食べていると想像する。
狂牛病にかかった牛は、殆どがミルクを生産するための乳牛だった。
乳牛達はミルクを搾り取られる分、たくさんの栄養を摂らないといけない。しかし、ミルクを搾り取るために高いエサを与えていたのではミルクは安く作れない。できるだけ安くて栄養価のある食べ物を食べさせたい。
それで出てきたのが「肉骨粉」という飼料だった。
肉骨粉とは何かと言うと、他の家畜の死体から作りだした肉その他の混合物である。つまり、草食動物である牛を人工的に肉食動物に変えていた、経済効率がいいからという理屈で。
こうした経緯から、羊の「スクレイピー病」菌がエサに混ざり込み、そのエサを食べた牛が病気になった事が分かった。
そうこうするうちに、今度は、病気になった牛を食べた人が人版狂牛病に罹ってしまった。「ヤコブ病」とそれは名付けられた。

何れも人間が勝手な都合で生物本来の動的平衡を切断し組み替えたせいで起きてしまった事だ。

牛を肉食動物に変えたせいで、牛の動的平衡が崩れ、それを失った牛を人間が食べ、人間もバランスを崩す事となった。
つまり動的平衡は人の生命の中だけで起こっているのでなく、地球全体の生態系の中で成り立っているという事だ。

さて、機械論的な生命観はいよいよ人間の命そのものを揺るがそうとしている。
「脳死問題」である。
福岡の人生は今この生命哲学の問題との格闘に移行しつつある。

「脳死問題」というのは、死ぬ時点がいつかという考え方だ。
「死ぬ」と言うが、実はある瞬間に死ぬ訳ではない。我々の体は37兆個もの細胞が集まってできているので、心臓が止まっても、体の細胞はまだ大半が生きている。
死というのは、したがって、何処か一点で起きるのでなく徐々に全身に拡がっていくのだ。
しかし、それではいろんな不都合が出てきたので、法律で一応「死」というのはここで起きる、と、勝手に分節点を作った。
古典的な死の瞬間というのは、心臓が止まる事、呼吸が止まる事、瞳孔の反射が消える事をもってした。だが、最近では、死の基準(時間)を遡り、脳が死ねば死だとした。
何故こういう考え方ができてきたかというと、新しい産業の発生と絡んでいる。
これにより、新しい医療が生まれ、お金を儲けられる人が増える。
「脳死」を「死」とすると、まだ体は生きているのに、この時点でもうその身体は死んでいると見なせる。つまり「脳死」というのは臓器移植のために死の地点を前倒しした、そういう分節的な、機械論的な生命観に基づく生命の分断である。

実は、これと全く同じ事が、「生」の方でも出現する事となった。脳が始まるところを「脳始」と呼び、ここで人間の「生」が始まると考えていいのではないか、と。

臓器を移植する事により救える生命があるのなら、それは幸せな事かもしれない。しかし、結果的に、これによって新たな経済システムが生まれ、いろんな物を取引するようになる。行きつくところが、生きている人間の臓器交換である。
「脳死」を限定してそれができるようになれば、いつ生まれたのかというのも限定できるだろう。「脳始」の前にできた内臓がまだ「生」の範疇に入らないなら、それは利用可能だという考え方を持つ人が出てくる。

「生命がいつ始まるか?」というのは頗る難しい問題で、「受精卵」という新しい状態ができたところが新しい生命の暫定的な出発点と考えると、もうそこから生命は出発している訳だ。
しかし、「脳が始まる」という概念を持ち出すと、胎児の脳が機能を始めた時が人間の生の始まりだとする考え方だって成り立つ事になる。
人の脳が始まる時期は、妊娠期間全体の3/4が終わった辺りという見方がある。ようやく脳が始まり、いろんな反応がでて、意識もそれなりに起ちあがってくるところだ。
「脳死」が人の死ならば、脳が始まる「脳始」が人間の生が始まる時で、だとするならば、「脳始」を医療上あるいは生物学上の決め事と定めれば、胎児の細胞を使って新たな再生細胞を作るとか、いろんな事に活用できる事となる。
これは言う迄もなく機械論的な生命観による生命の操作という事につながっていく。「脳死」も「脳始」も人工的な切れ目であり、この考え方は医療の進歩でも何でもなく、両側から生命の時間を短縮しただけとも言えるだろう。


 ディレクター 鬼頭明
 

[付記]
冒頭での福岡の発言のように、講演の"結論は「Viva 生物」「Viva 生命」"とはならなかった印象がある、が、それは彼の話の瑕疵でも何でもない。講演は大変に興味深く、面白かった。
見ためとは異なり、福岡の本性はエピキュリアンではないのかもしれない、そう思った次第である。
 
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