mixiユーザー(id:3341406)

2025年01月31日11:00

154 view

高橋源一郎 講演/浜松市天竜区龍山森林文化会館��

(高橋源一郎の講演の続き)

1979〜80年、『阿修羅のごとく』という素晴らしいドラマがあった。向田邦子の脚本と人物描写が素晴らしかった。演出 和田勉(第1,3話) 高橋康夫(第2話)。

今、これがリメイクされてNetflixで見る事ができる。監督は是枝裕和。
四姉妹を演じているのは、加藤治子,八千草薫,いしだあゆみ,風吹ジュンから、宮沢りえ,尾野真千子,蒼井優,広瀬すずへと代わった。
俳優は代わったけど、脚本は基本 向田のものをそのまま使っているから、時代は昭和54〜55年のまま。
見ていると分かるが、たった40数年前の話なのに、昭和の時代をテレビのドラマで作ろうとおもったら大変。是枝はそれをよくやっている。
まず、ドラマの冒頭、〇子が、父親に愛人と子どもがいると姉妹宛の電話でわめく。スマホではない、黒電話である。今の若い人達はダイヤルをジーコジーコ回す黒電話など見た事もないだろう。
とにかく、このドラマでは始終電話で話している家族の場面が出てくる。
留守電はないから、相手が本当にいないのか居留守を使っているのか分からない。話したければ、何度でもかけ直すしかない。
今なら、メールを入れ、あとは待てば良い。LINEなら「既読」になれば、何処かで見た事が分かる。
当時は、何度かけても出ないなら、それでも話したいと思えば相手の家に行くしかない。行った事のない家なら、住所をメモして出かけ、電信柱などを見ながら右往左往する。
今なら、グーグルマップで最適交通手段さえ教えてくれる、迷う事はない。

時代の移り変わりの大きさとして感じるのは、ネット時代になり、人と人のつながりが希薄になったという事。孤独になった、と言い換えてもいい。
電話しか手段がなかった時代は、関係が今よりずっと濃かった。ともすると、人と人の関係は「阿修羅のごとく」にさえなる。

四姉妹の物語は昔からいいものがある。谷崎潤一郎の『細雪』(1936~41)、ルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』(1868)、是枝の『海街diary』(2015)などなど。漫画にも四姉妹ものは多い。
しかし阿修羅は三面六臂、4人ではない。何故四姉妹なのか?

是枝はずっと家族の問題を映画にしてきた。ニセ家族、疑似家族を含め、何といろいろな家族を描いてきた事か。
『阿修羅のごとく』では、結婚している者もいない者も、4人の姉妹それぞれにまた家族(まはた家族らしきもの)を持っている。
それらが、何かの機会に実家に集まる。実家には彼女らの父母がいるから、3世代の大家族である。大家族というと家父長制を想像するが、このドラマでは男達は実にだらしがない。顔を突き合わせても、何も進展しない。無論、卓袱台をひっくり返すような非現実的な男もいない。
男達は既に権力を喪失しており、握っているのは四姉妹である。家父長制でない新しい大家族がそこにある。
新しい家族のあり方の模索、これが向田から是枝に伝えられたメッセージと言っていいだろう。

平安時代の男女は「通い婚」、政治は男が権力を持っているかもしれないが、家は女性によって成り立っている。生まれた子供が誰の子か、それさえ男にはよく分からない。妻(母親)のみぞ知る、これか実態だろう。
こうした母系制家族のありように、新しい家族の姿の可能性を見る事もできるのではないか。

ネット社会では、大概1人で何もかも済んでしまう。
わざわざ出かけて行ったら、どんな挨拶をしたらいいものか考え、相手の顔色を窺い、お愛想を言い、などという面倒な手順は要らない。
スマホ時代、家族はもはや必要不可欠なものではない。家族が要らないという前提なら、当然結婚も不要。
その代わりに大切なものを人は失っている。人はどんどん孤独になっていく。
これが、これからの人間社会の最大のテーマだろう。
それを考える上で、向田の『阿修羅のごとく』は実に先見性があった。

家族問題の先に「墓」の問題もある。

最近、「墓終い」が増えている。意思をもって墓をやめるという人もいるが、連絡先不明で墓を片付けざるを得ないケースも増えている。
墓地の一角に、処分した墓石が積み上がっている事かある。
新しい墓のシステムも出てきた。
マンションのような、タワーパーキングのような墓がある。謂わば土地なしの借家で、フロントで申し込み、個室で待つと、しばらくして自動で位牌が出てくる。それ迄の間、故人の在りし日の様子が動画で大画面に映し出される。
「ゼロ葬」というシステムもあるそうだ。ユーパックで遺骨を送りさえすれば、あとは何から何まで処理してくれる。
大変楽なようだが、こうしたシステムを扱っている企業が倒産したらどうなるだろう。経済最優先の今、遺骨から位牌から、全部捨てられてしまう事になるに違いない。

「墓終い」以前に、結婚せず一人家族で身寄りもない場合、墓自体が無駄なものになる。こうしたケースはどんどん増えてくる筈だ。
旧来からの土地付きの墓の価値は変化していく。

「骨壺」なるものについて考えた事があるだろうか?
関東の骨壺は大きく、遺骨は勿論、遺灰も刷毛で集めて全部その中に入れる。
一方、関西の骨壺は昔から小さい。遺骨の一部のみ拾ってそこに収める。
ある時、関西の某火葬場の係員にこっそり訊いた事がある、遺骨の残りはどうするんですか?
すると、全部捨てます、という事だった。
そうした歴史背景からすると、関西人の方が割り切ったリアリストが多く、散骨やゼロ葬、また墓終いなどに理解があるようにも思うのだが、どうか。

(私の儀姉も南紀白浜の海に散骨した。2012年の事である。)

高橋の母親の遺骨は、実は今も彼の机の下に置いてある由。もう何十年もそのままになっている、と。
母は、父の墓には絶対入りたくないと言って死んだ。それで、どうしたものかと思案するうちに、妙案も浮かばす、こういう事になってしまった。散骨も考えたが、それもどうも違うな、と。
こうしたケースは今後増えるだろう。
昔は何も言わずに亡くなっても、入れる墓は決まっていて問題も起こらなかったが、母のようにはっきりもの言う人も増えてきた。
家父長制の崩壊は、墓にも影響を与えている。
何世代も続く「△▽家代々の墓」に、これからの人がどういう価値を見出すだろう。

結局、故人との間に残る大事なものは、墓でなく記憶のつながりしかない。
見た事もないひいおじいちゃん、そのまた祖先が入っている墓。代々の「墓を守る」などという意識は、人と人の関係そのものが希薄になってきた時代に、どれ程の人が共感を持つだろうか。

墓の問題も間違いなく家族問題の延長である。

マッチングアプリで結婚する人が増えている。
アプリに要件や希望を入力して、あとは相手(が入力する情報)を待つ。
呑み屋の知り合いにその仕組みで最近結婚した女性がいて、訊いたら、ええっ、アプリなしで一体どうやっていい相手を見つけるんですか?と驚かれてしまった。
昔は"付き合ってみてそれ次第で"という進展が普通だったが、ネット時代、スマホ時代、そうした場も機会もないらしい。ヘタをしたら、サギに会いかねない。しっかりした母体のマッチングアプリなら安心と言うのだがどうだろうか。

(実は昨年8月に結婚した私の姪もマッチングアプリで出会ったとの事で、その普及に驚いたものだった。)

家族の問題は、これからも様々に展開していくだろう。
今後それをどんなふうに乗り越えていけばいいか、簡便な答えはないが、年代を超えて話し合い、知恵を出していくしかない。
我々の年代の人に尋ねると、若い人達と話す機会などないし、どだい興味の合う話もない、と。
だが、彼らは彼らなりに、我々世代とは異なる、驚く程多くの知識を持っている。偉そうに上から主張するのでなく、まず彼らの話を聴こう。彼らの興味のある話題を引きだすと、本当にたくさん話をしてくれる。こちらの話はそのあと。

……

これでも高橋源一郎がした話の半分もレポートしていないと思う。
質疑応答を終えてピッタリ16:00前。
冒頭に書いた、本講演のタイトルと内容について、私の思い込みは全く当たらなかった。
確かにあちこちへ話は飛んだが、それも高橋の計算のうちだったようで、「ニッポン(の家族)、過去・現在・未来」、一本筋が通った濃い話を聴かせてもらった。

高橋の発言を咀嚼しながら、再び天竜川沿いを1時間、車で山間の道を帰った。


下は1/30(木)の中日新聞朝刊記事。
フォト

 
3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2025年01月>
日 月 火 水 木 金 土
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031