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2025年01月19日15:11

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ルイーズ・ブルジョワ展/森美術館 ��

1/15(水)日帰りの上京、アーティゾン美術館で「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×毛利悠子〜ピシュスについて」、松涛美術館で須田悦弘展を鑑賞し、六本木の森美術館へ。今日迄やっているルイーズ・ブルジョワ展を観る事ができた。
・会期 2024.9.25〜2025.1.19

ルイーズ・ブルジョワ(1911-2010)と言えば、この森タワー広場に巨大なクモの彫刻が設置されているのを、どなたもご存知だろう。六本木ヒルズがオープンした2003年から、あのクモはお腹の卵を守り続けている。クモの彫像のタイトルは《ママン》(1999/2002)。同じ作品はここ含め世界の7ヶ所に常設されている。(9ヶ所説もあり。)
ブルジョワ展を日本で開催するとすれば、絶対に森美術館しかない。

しかし、クモ像は見た事があっても、ルイーズ・ブルジョワについて知っている方はそれ程多くないのではないか。私も同様である。

下は本展チラシ。
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タイトルには「地獄から帰ってきたところ、言っとくけど、素晴らしかったわ」というブルジョワの強い言葉が付けられている。
これについては、またあとで触れる事とする。

ルイーズ・ブルジョワはパリでタペストリー工房を営む両親の下、3人の子供の真ん中に生まれた。女、女と産まれ、父ルイは男の子が欲しかった。ルイーズの、私は望まれてこの世に生を受けたのではない、との思いは、彼女の一生にたたった。(念のため書いておくが、3番目は男の子が生まれた。)
生年の1911年頃は、依然として"家"なるものが何より重視され、女性はそれに奉仕すべく、家の中で家事・育児に勤しむという前近代的な時代だった。

ルイーズが2歳の時、第1次世界大戦が始まり、初めて近代兵器を駆使する戦争は国家総力戦争となり、男性の多くは戦地に駆り出され、死傷し、その穴埋めに女性は社会に出て働く事が必要となった。
しかし、戦争が終わって男性が戦地から戻ると、また女性は家の中の仕事に舞い戻された。
ヨーロッパでは女性参政権は第1次大戦後から与えられ始めた。早かったイギリスでは1918年、30歳以上の婦人に限定して。だが、ジェンダー格差は参政権で解決した訳ではない。
ルイーズの父は戦地で重傷を負い、家に帰ってきた。もともと横暴な性格だったが、ここから家族の関係は綻び始める。父は英語の家庭教師の女性を愛人として家に住まわせた。母ジョゼフィーヌは見て見ぬふりをするばかりだった。
幼いルイーズは両親を見て心に深い傷を負う。これは彼女の後年の芸術に決定的な影響を及ぼす事となった。

1932年、21歳のルイーズは美術の道を志し、エコール・デ・ボザール他で油彩画・彫刻を学ぶ。
その頃、ルイーズの看病の甲斐なく母親が病死する。ルイーズは自立を志す。
5年後、1937年、26歳のルイーズはパリで出会った米国の美術史家ロバート・ゴールドウォーターと結婚し、ニューヨークへ移り住む事となった。

《家出娘》(1938)は、大海原を浮遊するその頃の自分の心象を描いたもの。水平線の向うに、フランスに置いてきた家(家族)がある。形の上で自由は得たかもしれないが、目的もなく、「家出」と同然だと己を嘲笑している。
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「ファム・メゾン(女・家)」(1946-47)は、"家"にがんじがらめになった当時の女性の姿を描きだしたシリーズのタイトルで、これはそのうちの1枚《堕ちた女 [ファム・メゾン]》(同)。婚前交渉によって純潔を失った女性は"家"というシステムから追い出され、自分を見失って漂う。
1960年代後半には「ファム・メゾン」シリーズは女性解放運動のアイコンとなった。
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次は初の彫刻作品《荷を担う女》(1949)。
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3人の子育てに追われ創作に集中する事ができない自分自身をモデルにしている。アトリエはなく、アパートの屋上で制作した。そう迄してもルイーズは作らずにいられない。作品は全て過去の記憶と結びついている。
表情もなく単純化された像、その腰からぶら下がっているのは彼女の3人の子だと思われる。
ルイーズの言葉、「荷を担う女は荷に対して責任があり、その荷は極めて脆く、女は責任を一身に負う」、(そういう意味では、私は)「良い母親ではないかもしれないという怖れ」がある、と。
ルイーズの心理は揺れている、が、決して作るのをやめる事はできない。

1948年、ルイーズは父をニューヨークに呼んだ。父との関係の修復を試みようとしたのかもしれないが、父は3ヶ月でパリに戻ってしまう。
1951年、父は66歳で没。
愛憎の対象を失ったルイーズは鬱状態に陥り、10年間制作できない日々が続いた。
調査から、1950年代から60年代にかけてルイーズが精神分析治療を受けた事が分かった。その記録が日記やノートにぎっしり描き込まれている。自身の心の内を見つめ、作る意味を模索した。
1961年頃の言葉、「攻撃しないと生きている気がしない」。
作品の多くが表しているのは彼女の攻撃性である。
木を切り、削り、石をハンマーで叩く、こうした肉体的な行為は、内面の攻撃性の発散につながった。
制御できない感情は制作で昇華できる。自分の芸術を活かす道、満足のいく作品は自分自身の解放となった。

50歳頃になってルイーズは芸術活動を再開。新たな形態や表現が生まれた。
《隠れ家》(1962)
バベルの塔のように螺旋を荒々しく積み上げたブロンズを白の塗料で塗り付けた。
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《無意識の風景》(1967-68)
球状の突起物がボコボコと連続して居並ぶ。
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何れも永遠との親近性を示す点で、草間彌生の陽物(ファルス)や水玉やドットなどと類似するように思うのだが、どうだろうか。

1960年代後半から70年年代前半はウーマンリブ運動が激しさを見せた。

ルイーズに《C.O.Y.O.T.E.》(1947-49/79)という風変わりな作品がある。
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当初この作品はピーテル・ブリューゲル(父/1525~30-69)が聖書のたとえ話から創作した《目の見えない者たちの寓話》(1568)をタイトルとしていたが、1979年、ルイーズは作品をピンクに塗り替え、タイトルも改めた。これはフェミニストの運動家マルゴ・セントジェームズ(1937-2021)の組織名「コヨーテ」で、"Call Off Your Old Tired Ethics"(古い倫理観を捨てろ)とのスローガンから来ている。
ルイーズは自身を「フェミニスト・アーティスト」とは呼ばなかったが、1970〜73年の間、フェミニスト運動に関わり、デモにも参加した。

1973年、ルイーズの夫ロバートが亡くなる。
彼女は自身の内面へのまなざし深化させていく。娘としての自分、母としての自分、失われた家族の関係と向き合う。

同年、19名の女性作家とキュレーターがニューヨーク近代美術館に署名入りの手紙を送り、ルイーズを支援して、大規模な美術館での展覧会開催を求めた。
同館は1982年迄ブルジョワの展覧会を開催しなかった。

《父の破壊》(1974)
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ルイーズは精神分析を通じ、自身の作品の多くが父親に対する否定的な感情から生まれている事を知った。
本作は62歳になったルイーズの一頂点を築くもので、母・姉と一緒に、横暴だった父親を食べてしまう事で復讐を果たすという独創的な幻想を表現している。
中央のテーブルの上には父の肉片・骨片が散らばっている。
周囲に林立する丸い突起物は、前掲の《無意識の風景》と同類のものか?
また、真っ赤な色からして、この場所は口腔の中か、臓器の中か? 口腔の中だとすると、歯のようにも見えなくない。
この作品の病的心理が単純でないのは、憎みつつも愛しているという相反するもの内在による。

後世に残されたいくつかの映像を見てみよう。ここから推察される事がある。

『宴/ボディ・パーツのファッションショー』(1978)
「ルイーズ・ブルジョワ:新作」展の最終日に行われたパフォーミングアートの収録。
その中でパフォーマーによって歌われる叫びのような歌《彼女は私を見捨てた》は、父だけでなく母も私を捨てたのだと訴える。ルイーズは一生を通じて見捨てられる事への恐怖に苦しめられた。
 演出・作詞 ルイーズ・ブルジョワ
 パフォーマー スーザン・クーパー(1952-2023)
 会場 ニューヨーク・ハミルトン・ギャラリー・オブ・コンテンポラリーアート

『ルイーズ・ブルジョワ:蜘蛛、愛人、オレンジ』(2008)
インタビューに答えるルイーズ、50年以上前にも関わらず鮮明な父の記憶。
父は家族の前で、ルイーズの容貌についてけなし、笑った。そして、欲しかったのは女の子でなく男の子だった、と。
動揺し、インタビューの場から中座するルイーズの表情。
 監督 マリオン・カジョリ他

映画『 Partial Recall 』(1983)
上の映像では、過去の記憶に苦しめられるルイーズの姿が残されているが、ここでは強くこう言っている、「過去に強く囚われ命をすり減らす人は多い。過去を捨てられないなら、過去を作り直せ。それが私の仕事」。
これは、世の人々に対する警句というより、おそらく自分自身に言い聴かせている。


(続く)
 
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