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2021年09月25日02:41

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映画日記『ウェンディ&ルーシー』

2021年9月24日(金)

『ウェンディ&ルーシー』(2021年/2008年製作)
監督:ケリー・ライカート
今池・名古屋シネマテーク

特集上映「ケリー・ライカートの映画たち 漂流のアメリカ」から最後の1本。

そろそろ三十路に近いとおもわれるヒロインのウェンディは、愛犬のルーシーといっしょに職をもとめて車でアラスカへ行こうとしていた。
ところが、カナダ国境近く(と思う)のさびれた田舎町で車が故障してしまった。
ウェンディは懐がさみしいこともあって、スーパーでルーシーのドッグフードを万引きしたのだが、捕まってしまい警察に突き出されてしまう。
翌朝、留置場から出た彼女がスーパーの駐車場につないでおいたルーシーのもとに駆けつけると、いるはずのルーシーの姿がない。
必死になってルーシーを捜すウェンディに、次々と災難がふりかかり・・・・

話は変わって、記憶間違いかもしれないが、昔読んだ今村昌平監督の本か記事に、こんなエピソードがあった。
その昔、今村監督の下に、いっしょに働きたいと希望する多くの若者たちが集まってきたという。
監督はそんな若者たちをふるいにかけるため、ロケ先に向かう列車の中で、彼らが配った駅弁をどのように食べるのかを観察した。
そして、駅弁の経木のふたや底についた飯粒を、ひとつひとつ丹念に拾い口に運んだ者を残したという。
ただ、それだけのことだが、ケリー・ライカートの映画を見てたら、急にこの話を思い出した。
おもうに、今村昌平は駅弁の飯粒を後生大事にする若者に、日本人の「基層」を見たのではなかろうか。
「基層」というのは、米を作り、飯を食べ、村を作り、その土地にしがみつくこと、てっとり早く言えば百姓根性、そのいちばん良い例が『七人の侍』のラストシーンだ。
もちろん、百姓根性が良いとか悪いとかということではない。
そして、ケリー・ライカートの映画を見て、彼女の目には放浪や漂泊こそがアメリカ人の「基層」として映っていたとおもった。
加えて、放浪や漂泊は男たちの特権でなく、女たちにもまた「漂流のアメリカ」を体現していた。

閑話休題。
『ウェンディ&ルーシー』は漂流するアメリカ女の集大成のような映画だった。
ネタバレになるかもしれないが、ラストでお金がなくて故障した車を見捨てたウェンディが、少しの荷物といっしょに貨物列車に飛び乗ってしまった。
うわあ、ホーボーだ。とうとうホーボーまで登場しちゃったよ!!
と、おもわず興奮してしまったが、映画自体はこれまで見てきた3本同様、地味な映画だ。
ふだん見る愉快痛快豪華絢爛なアメリカ映画とはまったく違うのに、これがほんとうのアメリカの姿であるような気がしてくる。
さみしいアメリカだ。
私もそうだが、誰もが『ノマドランド』(2021年)を想起するはず。
『ノマドランド』には何度か出てくる、ノマド同士のふれあいみたいなシーンが『ウェンディ&ルーシー』にはひとつしかない。
それは、ひょんなことからウェンディと言葉を交わすことになった駐車場警備員の老人が、彼女の窮状を見かねて、職場まで車で送ってもらった娘の目を盗んで、「何も言わずに受け取れ」と、わずかばかりのお金をウェンディに渡すシーンだった。
貧乏人どうしのやるせないシーンで、グッとくる。
ヒロインのウェンディをミシェル・ウィリアムズが演じる。
これがまた、ダサい髪型にダサい服装で、のちにマリリン・モンローを演じた人とはおもえない。
劇中、彼女はずっと鼻歌を歌っていた。ひどく暢気なようであり、いっぽうで鼻歌と犬のルーシーしかいないという女の孤独感が伝わってくる。
そのルーシーとの再会と別れのシーン、これがまた泣かせる。

年末にはまだ早いが、ケリー・ライカートの名と、彼女の映画と出会えたことは今年の収穫のひとつだった。



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