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2021年06月17日22:00

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『女人讃歌〜甲斐庄楠音の生涯』 栗田勇〜その2

(続き)

◆大正から昭和へ

1919年迄の日本は第一次大戦の特需景気で沸いたが、1920年代にはいると、20(大正9)年に戦後恐慌、23(大正12)年に関東大震災、25(大正14)年には普通選挙法が成立するも同時に治安維持法が公布され、26年昭和入り、28(昭和3)年には張作霖事件、31(昭和6)年には満州事変と第2次大戦に向ってひた走る事となり、大正ロマン、大正デモクラシーの自由の時代は短い夢で終わってしまった。
官能の悦び等、表現できる時代は遠ざかってしまった。

◆絵画から映画へ

甲斐庄は映画監督 溝口健二に呼ばれ、戦局も緊迫する1941(昭和16)年、『芸道一代男』の正式スタッフとなった。46歳、甲斐庄の仕事は、公式には衣裳・風俗の考証だったが、溝口からは、女性の立ち居振る舞い等、演出の細部迄期待されていたようだ。
甲斐庄が溝口と出会った時期はもう少し遡るようだが、はっきりしない。

溝口は85本映画を作ったが、彼が描き出したのはいつも女性だった。しかも、人形のようにこぎれいなそれでなく、人間臭い女達だった。
そういう面で、甲斐庄がテーマとした女性と通ずるところがあったに違いない。
溝口の『雨月物語』は、1953(昭和28)年、ベニス国際映画祭で銀熊賞を受賞する。甲斐庄の衣裳は、アカデミー賞の衣裳部門にノミネートされた。
その3年後、1956(昭和31)年に溝口は没する。それをきっかけに甲斐庄も映画界を去る事になる。早や62歳になっていた。

◆晩年の回顧展、甲斐庄の再評価

82歳になって初めて回顧展を開催した事は先に触れた。
この時徳川美術館の館長をしていた熊沢五六が、1977(昭和52)年の目録の序文を書いている。
少し長いが、彼の作品に最も深い理解を示している文章なので、栗田の書からコピーさせて頂く。
・・・
甲斐庄楠音さんは比類なき「女」の画家である。日本美術史上でも稀に見る存在というべきであろう。甲斐庄さんはルノアールのように女の肉体の弾力、豊麗さ、柔軟性、どっしりとした重さをきわめて高い程度に表現した。しかし、ルノアールの如く生の愉悦、匂い出るような輝きにみちた女の礼讃ではない。

肉体は甲斐庄さんにあっては、さらに強い現実感をもって迫ってくる。それは、生の根源であり、あらゆるものを産み出す大地の霊のすみかでもある。ルノアールの女達は、幸福な苦しみのない世界に永遠の青春を享受している。一切のものが繚乱たる春の輝きの中にさざめいている。甲斐庄さんの世界の女達は、重苦しい息づまるような空気の中に衰えていく若々しさと美しさを予感している。時には暗黒な内部のうながしに虐げられている。

日展などで見られる所謂キレイゴトだけに終止をしている美人画家たちを見慣れた観衆には、こうした深い悲しみを滲み出している作品はあまり受けないかも知れない。が、それ故にこそ甲斐庄さんの作品は、ユニークなものであり、高い次元のものでもある。
凡て偉大な画家の作品は、どっしりしていて、大きさがある。深さがある。そうしたものが出るのは余程の天才でなければならない。甲斐庄君のものは、どんな小さなものでもそうしたものを感ぜせしめる。並々ならぬ画家というべきである。
・・・

◆未完の大作《畜生塚》

甲斐庄が《横櫛》の前年、1915頃から描き始め、最晩年迄手を入れながら完成させられなかった作品に《畜生塚》という大作がある。194×576cmの八曲一隻屏風であるが、行方不明となっていた。
栗田勇は甲斐庄の死後、これを探し続けて遂に、彼の実妹宅のスチール製物置から発見した。
日付が明記されていないのは学術書として欠点だが、この顛末は大変に感動的だ。

この作品は、太閤秀吉が甥の秀次等を虐殺した実史に由来している。
秀吉には実子ががいなかったため、姉の子 秀次を養子にして跡取りにしようと考えた。ところが、その後秀頼が生まれたため、秀次を邪魔だと感ずるようになった。
そこで、謀反の理由をこさえ、彼を捕え自刃させた。秀次は28歳であった。
秀次には多数の妻妾がいたが、その幼な子も含めて30人余りが処刑させられたと言う。
妻妾等の遺骸は一ヶ所に埋められ塚が築かれた。秀吉はそれを「畜生塚」と名付けた。

見つかった屏風絵には、21人の裸婦群像が描かれていた。
参6.) https://lp.p.pia.jp/shared/materials/c3198b14-efcf-47d0-a685-ec7e8203091a/origin.JPG
中で2人だけ、顔が胡粉で塗られているが、あとは線描が残るだけである。
個人的な思いつきだが、ひょっとしたら、甲斐庄はこのあと薄物の着物を重ね描きしていくつもりだったのかもしれない。
甲斐の画布の女性達は、まず裸体を描き、その後衣服を着せていくという工程を採られたケースが多いから、本作でもそう考えていた可能性はある。

甲斐庄は17〜18歳の頃、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロ等ルネサンスの天才達の作品を画集で飽きる事なく眺め、写生をした事が知られている。
実際にスフマートの画法を《島原の女(京の女)》で試しているのは、参2.)のレポートでしたためている。画像も、同レポートに貼り付けてあるのでご覧頂きたい。

《畜生塚》からは、ミケランジェロの《ピエタ》や《最後の審判》等を想像しない訳にいかない。
女達の様々な姿と肉体、様々な表情、中央で失神している娘を後ろから支えているのは母親か? 嘆き、恐れ、屈辱に喘ぎ、そして、苦悩と瞑目、狂気、諦め、…完成度は低いにも関わらず、これ程迄に訴えかける技量は並大抵でない。


[付記]
◆甲斐庄の性的傾向につついて

甲斐庄の性的傾向については、もう少し書き加えておきたい。
参1.)のレポートで、甲斐庄はホモセクシャルだった説があると私は紹介しているが、現在はバイセクシャルと考えるのが主流のようだ。

栗田勇は本書中に、楠音の実妹からの聞き書きを掲載している。
要約すると、
・・・
生薬で知られた丸岡の長女に徳子という娘がいて、兄は彼女を見初め、よくモデルに来てもらっていた。兄が結婚したいと言ったただ一人の女性だ。ところが、株で儲けた男が徳子に目をつけ、着物を買い与える等し、ある日別荘に連れ込んで囲い者にしてしまった。結局男は破産し、徳子は捨てられたが、その後、ある医者と結婚する。
あとになって徳子は兄に謝った。
(兄の気持ちは分からないが)2人はそれからも会っていたようだ。
・・・

◆遺品から見つかった多数の写真写真、そこから見えるもの

甲斐庄の死後、遺品の中から見つかった徳子の写真がある。
フォト

さて、これだけなら、ゴシップの類いだが、物語には続きがある。
下は1919(大正8)年に描かれた《青衣の女》。デビュー作《横櫛》の4年後、25歳の頃の作で、第2回国画展では落選したが、翌年文展に入選した作品でだ。
フォト

何か感じられないだろうか? そう、ポーズが全く同じである。
つまり、甲斐庄は、彼女をモデルに写真を撮り、作品を仕上げていったのだ。
彼の遺品からは多くのモデル達のポーズ写真が発見された。中には、役者のように自分が女装して(または裸で)ポーズを決めているものもある。
竹久夢二も夥しい数のモデルの写真を残している事が知られている。
それはともかく、《青衣の女》はかなり肉付きよく描かれているが、徳子はほっそりしていてあどけない表情だ。
写真の使用と、モデルと絵の人物の違いには、甲斐庄の作画の秘密の一端が秘められているように思える。

写真からもう少し甲斐庄理解のための材料を拾おうと思う。
下は、80歳の頃、最晩年の彼のポートレートである。
   フォト
こちらは青年時代のもの。
フォト

前に満開の大輪の花を活けた花瓶を持ち、やや斜めを向いて、如何にもナルシスティックな風情である。たまたま誰かに写されたというのでなく、自身の物語を作り出し、その役にはまった自分を演出している。
これらでは背丈は分からないが、画家等の集団写真を見ると、甲斐庄は小柄で華奢な体格だった。

そして、こちらは男性と2人の写真。
フォト

互いに肩を寄せ合う様は、2人の関係の尋常ならざる深さを物語っている。
左が甲斐庄、右は榊原始更(1895-1969)。
始更は1歳年上の甲斐庄と伴に京都市立絵画専門学校に通った。兄も日本画家の榊原紫峰。始更も甲斐庄と同じく第1回国画会展で入選している。
2人については、いつも連れだって京の町を歩いていた、同居していた、と、多くの人の証言が残っている。今で言えばパートナーの関係と言うところだろう。
この写真もよく計算して撮られた風情がある。恐らくタイマーを使って自撮りしたのではなかろうか。第三者の存在は殆ど想像できない。
いつ撮られたものかは分からないが、時系列としては、恐らく徳子との別れの方が先ではないかと思う。

最後は、始更が描いた甲斐庄の肖像画である。
フォト

タイトルは《楠音像》、制作年不祥。
始更は初期、西洋画に近寄って新しい日本画創造に力を入れていた。その後、琳派風の装飾性の濃い画風に転じ、晩年は水墨画の境地に辿り着いたと言う。
この肖像画は、タッチがポスト印象派風で、殆ど油絵のように見えるから、かなり若い時代の作品と言って間違いなかろう。

甲斐庄の複雑な心の奥底を、これらの写真から僅かながらも垣間見る事ができたように思うが、どうだろう。


(終わり)


[参考資料]
・『女人讃歌〜甲斐庄楠音の生涯』
 執筆 栗田勇
 発行 1987年新潮社

・図録『あやしい絵展』
 執筆 中村麗子
 発行 2021年毎日新聞社

・月刊「芸術新潮」1984年8月号
 特集�供憮劼こ┐任呂い�んのか〜甲斐庄楠音の栄光』
 執筆 栗田勇
 発行 1984年8月新潮社
 …栗田はこれを基にして3年後に『女人讃歌〜甲斐庄楠音の生涯』を上梓した。
 
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