(続き)
搦手門の先、一段下には「虎口(ここう)」があり、堀切や土塁等で段差が設けられて二の曲輪、三の曲輪と続く。
写真でも分かるが、二の曲輪には通路から梯子を使って上がる仕組みになっている。
その向こうに更に堀切が設えられ、土橋を渡って三の曲輪がある。
三の曲輪の先には二重堀切もある。
下の写真は、二重堀切の外から三の曲輪と二の曲輪を振り返って見たもの。
堀切には、底が尖ったV字型の「薬研堀(やげんぼり)」と逆台形型の「箱堀」とがある。
何れの仕組みも、侵入しようとする敵兵を上から射るのに良いし、梯子や橋は崩してしまえば入ってくる事ができない。よく考えられている。
これらは、武田氏が支配していた戦国時代のものの復元で、これ程しっかり山城の構造が残っていた例は全国に少なく、歴史的に貴重な遺産だとの事だ。
NHKの大河ドラマ『おんな城主 直虎』は、ここを何度かロケ地として使ったらしい。
おとわ(井伊直虎の幼名)の隣で直親が横笛を吹いた光景を思い出す。
高根城の歴史を簡単に辿っておこう。
ここに築城した一番最初は、南北朝時代の1414(応永21)年、奥山金吾正貞則だったと言われている。
後醍醐天皇の息子 宗良親王の皇子尹良(ゆきよし/ゆきなが/これなが?)親王を護るためと伝えられるが、尹良の生涯については諸説があり信憑性はどうだろうか?
戦国時代に移ると、奥山氏は駿河の今川義元から領地を認める安堵状を得ていたが、桶狭間の戦以後今川氏が没落、武田信玄の力が北遠に及んだ。
1569(永禄12)年、時の本城主 奥山民部少輔貞益は狡猾にも敵対する今川氏真と徳川家康の双方から安堵状を得たが、縁戚だった信州遠山郷の遠山氏に攻められ討ち死に、落城。
その後、1570(元亀元)年〜76(天正4)年の間に武田方によってこの城は大改修され、1572(元亀3)年の信玄の遠州侵入(三方ヶ原の戦で家康が大敗する事となる)時には、武田軍の拠点となった。この時、奥山の子孫は武田軍を助けた褒賞として、拡大した領地を信玄から安堵されている。
しかし、その直後に信玄が没し、1575(天正3)年の長篠の戦で息子の勝頼軍が織田信長・家康連合軍に敗れ、武田勢は家康軍によって遠州から駆逐されていく事となる。
武田方の撤退により、高根城は廃城とされ、その後家康はこれを使わなかったようである。
平成の時代に復元された高根城は、武田が改修を加えた時の姿だ。
山頂からの帰りは異なるルートをとり、大回りして駐車場に戻った。その方が坂が緩やかだろうと思ったからだが、勘は外れ、深い森の中、人もあまり通らないであろう長々と続く山道で、後日の筋肉痛の原因になった。
少々雨も降りだしたが、木々の枝が雨滴を防いでくれたのはありがたかった。
もう一度車に乗り、再度水窪の街中を抜け、発電所の奥にある水窪民俗資料館に寄ってみる事とした。
ここには、水窪の豊かな文化と歴史、産業と生活を想像させる資料が多々あり、興味深かった。
入場は無料。
靴を脱ぎスリッパに履き替えて、入口付近のガラスケースに所蔵された物を見ていると、あまり客も来ないのであろう、館のおじさん(館長というのではなさそうだった)が、わざわざお茶とお菓子を持ってきて、いろいろと話を聞かせてくれた。
疲れた身体に、お茶と甘いものはよく沁み込んだ。
縄文時代の向市場遺跡の遺物や、高根城の発掘から見つかった水ガメその他、後年の養蚕や農業・林業関係の道具類、無形文化財の西浦田楽の面や楽器、古文書・古地図の類い、その他点数も多く、時間があれば、もっと見て回りたかった。
おじさんももっと話をしたいという風情だった。
水窪には「大野の一本桜」他、サクラの名所が何ヶ所かある事は事前に知っていた。
標高の高い所だからまだ愉しめるのではないかと期待していたが、既に盛りは過ぎており、残念だった。
16時頃、我が家に向って帰路に就いた。
少々疲れたせいもあって、復り道は、往きより大分長く感じられた。
近くには他にもいくつかの城があると聞くし、水窪にはまた来ようと思う。
(お終い)
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