(続き)
◆その後の城の概史
1615(慶長20)年 「武家諸法度」、第2代将軍徳川秀忠、全国諸大名に、城の新築・補修を禁止。「一国一城令」、居城以外の城の破却を命じた。
全国に約3,000あった城が170に減ったが、浜松城は存続した。
1872(明治5)年 浜松県令。城の物件・建物の払い下げ。
1873(明治6)年 「廃城令」。全国で、要塞としての価値が認められない城は廃棄となった。存続したのは40城余。浜松城も建物取り壊し。
1875(明治8)年 土地・立ち木の払い下げ。天守曲輪一帯と本丸の約半分を除いて、他の城跡地は広く民有地となった。
以下、明治初年の浜松城写真。
天守曲輪に建物は何もない。雑木が石垣の間にもぼうぼうと蔓延っている。
1911(明治44)年 浜松市制施行。
1945(昭和20)年 浜松大空襲。しかし、それ以前に、城は既に残っていなかった。城跡にあったのは、個人住宅、百軒長屋、煙草工場倉庫等。
1948(昭和23)年 二の丸跡に地元の元城小学校を移設。
1949(昭和24)年 戦災復興都市計画決定。城跡は浜松市庁舎・公園用地に。
1950(昭和25)年 市制40周年事業として、城跡で「浜松こども博覧会」実施。天守台にはベニヤ板に描かれた模擬天守が建てられ、展望台として利用された。
博覧会跡地は動物園となり、浜松城公園が開設され、50mプールも造られた。
1952(昭和27)年 二の丸に浜松市庁舎移転。
1956(昭和31)年 浜松城再建期成同盟会結成。再建に向けた募金集めを開始。
1957(昭和32)年 夏季国体の水泳大会が浜松でが開催される事となり、各種プールが次々建造された。
1958(昭和33)年 浜松城天守閣建設。
結果的に募金は充分でなく、集まった1395万円を投じ、天守台面積の2/3程を使った小規模な天守閣を建造する事となった。
設計は名古屋工業大学名誉博士 城戸久が当った。天守閣の史料は殆どなかったため、城戸は、福井県坂井市の丸岡城(*)をモデルにした。鉄筋コンクリート造り、1,2階は郷土博物館、3階は展望台。(セメントは現物支給があり、建設費用に含まれていない。)
歴史的根拠のない、この浜松城天守閣を「復元」と呼ぶのは相応しくない。
以下、現在の天守閣写真。
「野面積み」の高石垣は、1590年代に堀尾吉春が築いたものと考えられる。
角は「算木積み」と言われる手法で、一段毎、両面の石が交互に組み合わされている。
(*)丸岡城は、1576(天正4)年、織田信長の命で柴田勝豊が築いた。現存する天守閣の中では、日本最古の建築様式を持つと言われる平山城。
1963(昭和38)年 市制50周年記念事業として城跡に浜松市体育館建造。
1971(昭和46)年 市制60周年記念事業として城跡に浜松市美術館建造。
ここ迄の浜松城公園整備は、ひたすら市民の文化・スポーツ・レクレーションの拠点化を目指したもので、歴史的景観という配慮は殆どされていない。学校や市庁舎、道路等の造成工事では、本丸と二の丸の地形は削り取られ、三の丸は土塁から撤去、堀も埋め立てられ、完全に市街地化された。
しかし、浜松城と周辺に歴史的景観を取り戻す動きは、徐々にではあるがようやく高まりを見せ、2009年の「浜松城公園歴史ゾーン整備基本構想」によって本格化する。
そうした流れの中で、1978年のプール廃止、1983年の動物園移転、2008年の体育館撤去も行われたと考えていい。
2009(平成21)年 これ以降、城跡の発掘調査が繰り返し進められる。
2014(平成26)年 発掘成果と絵図面等の検討を踏まえ、天守門が復元された。
2017(平成29)年 二の丸跡にあった元城小学校が統合計画により閉校。この跡地も、現在発掘調査が進められている。
今後、本丸北側にあった富士見櫓の再建が計画されているようだ。
以下、天守閣とその前に復元された「天守門」。
◆本展展示物
・絵図,地図より
1)《青山家御家中配列図》
青山氏が浜松藩主だった時代(1676-1702)に描かれた。315×300cmという巨大なサイズに驚く。
これが浜松城を描いた最古のものとされていたが、最近になって、次が発見された。
2)《遠州浜松城絵図》
17世紀前半〜中頃にかけて描かれたと思われる。63×69cm。
1)では、本丸南東の榎門の屋根は瓦葺きだが、2)では杮葺きになっている。
杮葺きは薄板を重ねたもので、時代趨勢の中で、次第に杮葺きから瓦葺きに変化している。これが、2)の方が1)より古いと考えられる根拠である。
10/14中日新聞朝刊記事参照。
記事の図では東が上になっているので見にくい。
それを右に90℃回したのが下図で、上が北になる。
(右上に出っ張っている4つの円い土塁が「古城」。)
昨日の日記に掲げたチラシ写真の背景は、このクローズアップである。
チラシ背景の上左部が天守台、その右が本丸(字が逆さになっている)。その下の方、本展タイトルの文字が被さっているが、「築城から現代へ」の「から」の下に半ば隠れているのが榎門。確かに瓦葺きでない事が分かる。
以下は10/18中日新聞記事。
家紋の入った丸瓦について、記事の最後に紹介されている。
・家紋瓦
この10年の発掘で、歴代城主の家紋がかたどられた瓦が出土した。
時代/城主名/瓦の家紋を分かり易くマトリックスにした表がある。
以下リンクの第19ページをご覧頂きたい。
桔梗紋は太田氏、井桁紋は井上氏である。
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/kouen/park/zone/keikaku/documents/2-3.pdf
〈参考資料〉
・『浜松市史 ニ (近世編)』〜第三章第一節「浜松城」
編集・発行 1971年浜松市役所
・「浜松城公園歴史ゾーン整備基本計画」〜第2章「計画地の概要と現状」、第5章「個別計画」より「遺構の保存・修復計画」
作成 2011年浜松市公園緑地部公園課
・「浜松城公園長期整備構想」〜第1章「浜松城公園の位置付け」より「浜松城公園の経緯」、「浜松城の沿革」
作成 2014年浜松市都市整備部公園課公園管理事務所
・「文化遺産の世界」vol.30 特集『浜松城における整備のあゆみと観光事業』
執筆 浜松市文化財課 鈴木一有
発行 2018年NPO法人「文化遺産の世界」
(お終い)
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