(続き)
巻7、1284年、一遍上人一行はとうとう上洛する。
その第1段は、上洛直前、大津関寺での踊念仏の様子。境内の池の島に踊り屋を建てたのだろうか。
琵琶湖 大津の港に今しも着けようとする小船。水辺の杭や柵には鵜が何匹も羽を休めている。観光客向けの小さな出店が並び、その屋根の上には鶏が止まる。浜には馬に乗った武者。関寺の門前には荷物を牽く牛車。関寺には神牛の伝説があるから、そのシンボルとして描き込んだのかもしれない。
入口の門の脇には、壁に凭れかかって地べたに座る乞食やハンセン病者の姿も。
踊念仏を見物する人々の中には、大きく両手を打ってリズムを合わせる男女、しかめっ面をする僧等様々。
踊り手は喜色満面、足を上げ下げして無心に体を動かしている。
同第2段は、京都四条釈迦堂での賦算の様子。
手前の四条の橋の下では褌1つになって馬を洗う男達。馬に乗り、また牛車に乗って駆けつける人達。牛車に驚く犬3匹。狭い家の中では煮炊きをする女等。
釈迦堂の境内で、一遍等は京の人々に熱狂的に迎えられた。
集まってくる人々は、位も職業も様々、性別も年齢も関係ない。美しい衣服に笠を被った婦人もいれば、他派の僧や尼。屋根に上って見物する子供や婦人。
これらを絵師は、実に丁寧に生き生きと描き写している
以下部分アップ。
賦算は、欲しがる人々の手が四方八方から伸び、混乱の極みに達し、大男の一遍はやむを得ず弟子に肩車してもらい、一生懸命な表情で札を分けている。
飛んで巻12、第3段は一遍臨終の場面である。
兵庫観音堂は壁がない小堂で、その床に一遍の死体は横たわっている。周囲には弟子達だけでなく村の住人達も集まり、嘆き悲しみ、また静かに祈っている。庶民に愛された一遍の臨終に相応しい。
このシーンは〈釈迦涅槃図〉を想像させもする。
釈迦のように体が大きく描かれる事はなく、動物達も集まってきていないが、構図は凡そそんな感じである。
この直後、一遍の弟子7人が入水をし、あとを追った。その様子も絵に描かれている。
一番弟子で二祖となる真教も入水しようとするが、弟子達のため時宗のために思い留まった。
さて、最後にこの絵巻を描いたと奥付にある絵師「円伊」について触れておこう。
しかし、円伊については何も史料が残されていない。何処の誰か、経歴も一切分かっていない。
「法眼」と付してあるから、位の高い絵師だった筈だが、にも関わらず何故か?
自然や風景の描写力、特に中国から入ってきたばかりの水墨画とやまと絵の技法を融合、また、多様な人々の個性を描き分け、風俗や生活等ささやかな側面にも目を配れる、恐らく当代随一と言って良い程の高い技量を持った絵師であった筈だが。
私は巻7から画風が変化したように思ったけれども、どうだろう。
それ以前は田舎中心の場面が多かったが、ここから都会を描くようになる。人の数も俄然増える。人々の着物も派手になる。
輪郭線がキリっと引き締まり、色彩も増えた。
この変化をどう見たらいいだろう?
[芸術新潮]2019年4月号の特集で、遊行寺(清浄光寺)宝物館館長の遠山元浩(1968- )は、「円伊」をプロジェクトチーム名と考えている。
「最低でも5人くらいのチーフがおり、それぞれの下に相当な人数の手だれの絵師がいたはずです。そうした万全の体制をとらなければ、裏彩色もある絵巻12巻を、一遍の没後10年で完成させることなど不可能でしょう。」
仮説としては魅力あるが、しかし、現状、立証は一切できていないと言わざるを得ない。
詞書作者が果して聖戒だったのかどうか、それも含めて上で掲げたいくつかのクエスチョンにどんな答えが出るか、今後の研究の進展を待つしかなさそうだ。
展示は他にも、仏像、経典等々多数あった。
一応本展の構成を示しておく。
第1章 浄土教から時宗へ
第2章 時宗の教え、一遍から真教へ
第3章 国宝 一遍聖絵の世界
第4章 歴代上人と遊行 時宗の広まり
第5章 時宗の道場とその名宝
あまりに面白く見入っていたため、14:50の集合時間を失念し、バスに10分遅れてしまった。ご迷惑をおかけしました。
15:00、京都国立博物館前を我々のバスは出発した。
これで、今回の「Mの会」、当初の旅程は全て消化した。
あとは、浜松に向って走るだけである。
16:00、新東名高速の土山SAでの休憩時に、幹事のMさんがアルコールとつまみ類を買ってくれた。
これから寄る美術館も寺社もないので、呑みたい人は好きなだけ呑めば良い。
バスの後部座席は、そんな男女で賑わった。
私もほんの少々お付き合いを(笑)。
途中、幹事からインフォメーション、
「今夜21:00〜、NHK総合の番組[NHKスペシャル]で『運慶と快慶 新発見!幻の傑作』が放送されます。帰宅は間に合うでしょうから、ご覧下さい」。
さて、興福寺の項でこんな風に書いたのを憶えておいでだろうか、
「この話には、思わぬ続きが出現する事となる」。
実は、その続きがこの番組なのだ。
もはや詳細に亘る記述は避けるが、最近、
中金堂の四天王立像について科学的な調査が行われた。
その1つが材料の確認である。
結果、
四天王像には桂の木が使われていた事が判明した。
桂が使われる事は極めて珍しい。
時代と伴に流行は変化するものの、多いのは檜、樟、松、桐、榧、欅、海外産では白檀、というところ。最も多いのは最初に挙げた檜だ。
桂の使用は一般的には殆ど見られないが、
運慶の晩年作、北円堂の無著・世親像、これが桂である。
先項でも書いた通り、再建された北円堂のために同時期に作られた9体は、全て運慶と一門が当たった事が判っている。
現在、中金堂にたまたま並べられている四天王立像の制作は、制作時期で言えば、まさに
無著・世親と同じ頃、運慶の晩年に当たる。
そして、
《興福寺曼荼羅》を見ると、その絵が描かれた頃、北円堂には無著・世親像と伴にこの四天王立像とかなり似たものが置かれていた。
これだけ条件が揃えば、ほぼ確実だろう。
日本彫刻史と運慶研究の大家 山本勉(1953- )も番組の中で太鼓判を押していた。
では、四天王立像、中でも増長天の複雑な表情等は何に由来していると考えればいいだろうか。
それは、図らずも運慶その人の心中が顕れている、そう理解する以外にはあるまい。
平安時代末期、まるで地獄図のような南都焼討ち後に実質的な仏師デビューした運慶は、何よりも平和な世の中を希求した。その実現を鎌倉幕府に託し、今迄にない仏像を彫って東国の寺にも納めた。
腐敗した貴族政治が終焉し、1185年の鎌倉時代スタート(今は1192年説は採られていない)以来その夢は実現していくかに見えた、が、頼朝の早逝後、1204年の第2代将軍頼家の暗殺等、次々権力争いが勃発し、不穏な空気が蔓延し始める。
四天王立像と無著・世親立像を造ったのは1210年前後、まさに、こうした空気の中で晩年の運慶は仕事をしたのである。
無論、解決しなければならない附随事項はある。例えば、無著・世親像迄使い続けた玉眼を四天王像が採用していない訳、等がそれに当たる。
それもまあ今後の愉しみとしよう。
ともかく、
運慶仏はこれで31体から35体となったのである、11寺は変わらない。
私は、11寺34体まで観た計算になる。
前泊のプレリュードと伴に、素晴しいコーダが付いて、今回の旅はフィーネとなったのである。
浜松帰着については、最初に既に書いているので、ここで全て終えて筆を置く事にする。
長いレポートをお読み頂きまして、ありがとうございました。お礼申し上げます。
〈参考資料〉
・『十一面観音巡礼 愛蔵版』 白洲正子 2010年新潮社発行
・『名文で巡る 国宝の十一面観音』 和辻哲郎,永井路子他 2007年青草書房発行
・『仏像の基本』 吉田さらさ他 2011年社�判佝納�
・『薮内佐登司流 ほとけの履歴書』 薮内佐登司 2014年NHK出版発行
・月刊[芸術新潮]2009年3月号 特集「興福寺創建1300年記念 阿修羅のまなざし」 金子啓明,丸山士郎他
・同2019年4月号 特集「中世日本のタイムカプセル《一遍聖絵》の聖と俗」 遠山元浩,林温
・図録『国宝 阿修羅展』 浅見龍介,丸山士郎他 2009年朝日新聞社発行
・図録『国宝 興福寺仏頭展』 安田次郎他 2013年日本経済新聞社発行
・図録『運慶』 浅見龍介,西木政統他 2017年朝日新聞社発行
・[歴史秘話ヒストリア]『興福寺 七転び八起き〜日本の文化はここで生まれた』 ディレクター角野史比古 2019年5/7 NHK総合再放送
・[日曜美術館]『踊らばおどれ〜一遍聖絵の旅』 ディレクター原口美早紀 2019年5/12 NHK-Eテレ放送
・[NHKスペシャル]『運慶と快慶〜新発見!幻の傑作』 ディレクター横山睦美,山崎唯生 2019年5/26 NHK総合放送
ログインしてコメントを確認・投稿する