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2019年03月05日00:12

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映画日記 『七つの会議』

先週末の日曜日は、『移動都市/モータル・エンジン』に続きもう1本見てきた。

2019年3月3日(日)

『七つの会議』(2019年)
監督:福澤克雄
名駅・ミッドランドスクエアシネマ

じつは池井戸潤の世界に接するのは、この日が初めてだった。
テレビの半沢直樹シリーズは一度も見たことがなければ、彼の本は一冊も読んでない。
食わず嫌いもよくないので、本作を見ようとおもったしだい。

サラリーマンとして会社勤めをした者にとって、会社というのは理不尽の塊であることは、多かれ少なかれ誰もが体験しているとおもう。
会社の理不尽に対して個人の力ではどうにもならないのが現実なら、映画や小説の中だけでも筋と正義を通したい。
『七つの会議』は、ほとんどのサラリーマン、サラリーウーマンにとって、日頃のうっぷんを晴らしてくれる映画だった。

ところで、サラリーマンが筋と正義を通すという映画といえば、黒澤明の『生きる』(1952年)がある。
『生きる』の志村喬演じる主人公の渡辺勘治は、会社勤めではなくお役所勤めだが、一般的にはサラリーマンだ。
渡辺勘治は『七つの会議』の野村萬斎扮する“八角”と同様、サラリーマン社会のスーパー・ヒーローだった。
しかし、『生きる』には『七つの会議』のような痛快さがない。
ラストシーンで、渡辺勘治のようにヒーローになろうと一瞬おもいながら、結局は書類の山の中に埋没してしまう日守新一を映すことによって、観客は痛快さより、苦い思いを味わうことになる。

「おまえらは、ほんとうに渡辺勘治のようになれるのか?」

こういう上から目線が、黒澤明は家父長制うんぬんと批判される要因なのだろうが、それはまた別の話。

『七つの会議』は娯楽映画なので、『生きる』と比較するのは筋違いかもしれないが、エンドロールにかぶさる野村萬斎のおしゃべりには、『生きる』のラストシーンのような力がなかったことは確かだ。

戦前のサラリーマン映画は見てないのに等しいので何ともいえないが、少なくとも戦後の日本映画におけるサラリーマン映画のスタンダード(=基準)は黒澤明の『生きる』になるのだろうと、あらためておもった。

<追記>
これだけ非正規労働者が増え、その非正規労働者には多くの外国人労働者がいるという実情のなかで、いまの日本のサラリーマン(=正規社員)は特権階級なのかもしれない。
こういう時代のサラリーマン映画を、ぜひ見たいものだ。


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