小説『朗読者』(1995)が世界的なベストセラーになったベルンハルト・シュリンク(1944- /独)の最新作『階段を下りる女』(2014)を読んだ。
『朗読者』は多分2001年頃に読んだと思う。
2008年には、スティーヴン・ダルドリーによって映画化もされ、これも観た。邦題は『愛を読むひと』。
参)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1478665900&owner_id=3341406翻訳は『朗読者』と同じ、松永美穂。
出版も同じ新潮社[クレストブックス]、2017年の発行である。
「階段を下りる女」とは、小説の中ではシュヴィントという、後年世界的な画家となる人物の描いた絵のタイトルという事になっている。
これにはモデルとなった実在の作品《エマ。階段を下りる裸婦》(1966)がある。作者はゲルハルト・リヒター(1932- )。
そして、その絵はまたマルセル・デュシャン(1887-1968)の《階段を下りる裸体No.2》(1912)というキュビスム作品に対抗して描かれたという経緯がある。
これらについて書き始めると、それだけで長大なレポートになるので、ここでは、そういう背景があるという事だけ頭に入れておけば良いだろう。
主人公の「ぼく」は、40年前にドイツ国内で観て、その後行方不明となったこのタイトルの絵を、遥か遠いオーストラリアのシドニーのギャラリーで出張中に目にした。
その経緯に、弁護士になりたての「ぼく」は少なからず関わった。
絵を観たとたんに、40年前のその出来事が一度に逆流してきた。若者には苦く、不可解な出来事は、心の中に重く留まっていたのである。
その絵のモデルとなった女性は、グントラッハという歳の離れた大企業の経営者の妻で、イレーネといった。
グントラッハは階段を下りてくる若い妻のヌードを、シュヴィントという当時は若手の気鋭画家に描かせた。
が、制作中にイレーネはシュヴィントと駆け落ちをしてしまった。完成した作品だけが、グントラッハの自宅の壁に残された。
シュヴィントとグントラッハのトラブルは、弁護士である「ぼく」の下に持ち込まれる。
シュヴィントはある経緯から、グントラッハの家で《階段を下りる女》の修復をする事となった。
修復が終わると、絵にはまた新たな疵がつけられた。疵をつけたのは、絵の持ち主であるグントラッハらしい。
こうした事が繰り返され、シュヴィントは作品を買い戻すしかないと思い込む。しかし、グントラッハは首を縦に振らない。
遂にシュヴィントは、イレーネをグントラッハに戻す事で決着をつける決心をする。グントラッハもそれを狙っていたのだ。
その契約書の作成は「ぼく」が担当する事となった。
内心ではこの契約に同意できない「ぼく」は、この経緯を全てイレーネに話してしまう。依頼人と弁護士とのあるべき関係からして、弁護士として決してやってはいけない事である。そして、その時、「ぼく」はイレーネを恋してしまった。
イレーネは、「ぼく」を共犯者に巻き込み、絵を自分のものにしてシュヴィントとグントラッハから逃亡する事とする。
「ぼく」は、それをイレーネの愛と信じて、彼女から頼まれた役割を演ずる。
今にして思えば、恋愛にも人間関係にも疎い「ぼく」の浅はかさだった。
絵を手に入れたイレーネは、「ぼく」の下に現れず、絵と伴に行方不明となってしまった。
事の経緯から、この事件は表沙汰にはならず、「ぼく」は企業の吸収・合併の腕利き弁護士としての活躍を重ね、結婚もし子供達もできた。
そして、40年後、シドニーのギャラリーで「ぼく」はこの絵を見つけるのである。
ギャラリーの係員は貸出者名を言わなかったが、「ぼく」は絵の出どころをイレーネと信じた。
イレーネはこのオーストラリアにいるのか?
「ぼく」は探偵社を雇ってイレーネの居場所を突き止め、とうとう世間から身を隠し孤絶の海岸に1人で住んでいた彼女と出遭う事となる。
彼女はこの40年間何処でどうしてきたのか?
「ぼく」も勿論、美しかったイレーネにも40年の歳月は厳しい跡を残していた。そして、死の病にも侵されていた。
2人の会話はあちこちでポキポキと折れて続かない。それもそうだ、イレーネと「ぼく」が会話したのは40年前のほんの僅かな時間である。
そこへ、シュヴィントとグントラッハもやってくる。
世界的画家となったシュヴィントの行方不明作品が展示された事は、ニュースとなって瞬く間に伝播したのである。
死を前にしたイレーネは、「ぼく」は措いて、ギャラリーに貸し出す時点で、2人の来訪を計算していたらしい。
40年振りに4人が顔を合わせる事となった。
スリリングでミステリアスな筋立てではある。
イレーネは、2人から当時の気持ちの本音を訊きだしたい。
2人は、ただあの絵の所有権を主張してぶつかる。
取り戻す事が不可能と判ると、2人は帰っていってしまう。
とり残された「ぼく」は、出張から帰る事を中止し、病の酷くなるイレーネの看病をして、長居をする事となる。
ここからが、この小説の最終章第3部である。
2人は、イレーネの病状の波を乗り越えながら、誠実に言葉を選び、訥々と会話を重ねる。
「ぼく」は、その会話の中から、自身その実態が見えずに暮らしてきたさまざまの物事を思いやる。
大学を出てすぐに裁判官を目指した自分の性向、アル中ではないかと取り沙汰されながら交通事故で死んだ妻の事、本質的な会話のできない子供達、あの頃すべきだったのに交わす事ができなかったやりとり、自分は一体何者だったのか、これで良かったのか、等々。
イレーネは次第に状態が悪くなり、介護もきれい事ではなくなる。
果たせなかった物語、あり得たかもしれない物語を2人は途切れ途切れに紡ぎだす。それは、次第に夢と実際にあった現実の思い出が入り混じり、こうあって欲しかった淡い色で人生が描き出されていく。
過去との和解は可能か、これはシュリンクが繰り返し試みてきた問いである。
ラストはある世界の滅びのようでもある。
ログインしてコメントを確認・投稿する