1/10(水)、静岡県立美術館で開催中の「アートのなぞなぞ〜高橋コレクション展」を観にいく。
2018年の展覧会初鑑賞である。
9:10浜松駅発のJR在来線に乗るため、家を出たのは7:50。
静岡駅の次の次、草薙駅で降りて、県美行きバスに乗り換え。
11;00前には美術館に到着した。
・会期 ’17.12/23〜’18.2/28
「高橋コレクション」とは、精神科医 高橋龍太郎(1946- )の蒐集品である。
高橋は、1997年にコレクションを開始。多くは1990年代以降の日本の作家の作品で、現在2,500点に上るとのこと。
今展では、その中から100点をピックアップ、加えて静岡県立美術館の所蔵品から30点が並行展示されている。
県美の30点と高橋コレクションとは、何らかの点で「共振するか反発するか」している、というのが、今展企画者(静岡県立美術館上席学芸員 川谷承子)の主張である。
そのキーワードが「なぞなぞ」だと言う。
今展の印刷物からすると、「なぞ� 廚蓮◆擇覆召蕕─曚世箸里海函�
その意味は、曰く「古くから日本の絵画に表されてきた、富士山や花鳥風月といったモチーフから、屏風絵や浮世絵まで、日本の美の伝統になぞらえた表現のことを言う」。
「なぞ�◆廚蓮◆擇い覆いい覆い个◆曄�
曰く「一瞬のうちに消えていく、形のない脆く儚いものを作品化しようとする意思。不完全なもの、目の前に存在しないものに思いを馳せる心象を映し出す表現を指す」。
「なぞ��」は、【おとなこども】。
曰く「子どもでもない、大人でもない中間領域の少女を表わしたイメージやプラモデル、フィギュア、マンガやアニメ、ゲームなど、少年的嗜好が息づく作品を形容する語」。
使用している言葉に厳密さはない。何を言っているのだかよく判らない文章ではある。
どだい「なぞなぞ」と「なぞ」とは、意味が違う。「なぞ」には明確な答えがあるだろうが、「なぞなぞ」は、言ってみれば洒落の趣味的世界である。
まあ、私も言葉の意味に拘るつもりはない。美術館としては、似たもの、似ていながら異なるもの、その辺りを気楽に遊んでみようと言っているのだろう。
展覧会第1章「いないいないばあ」
青山悟の《夕暮れの新宿》(2003)は刺繍作品だそうだが、どんな風に作られているのか想像がつかない。
新宿の高層建築物は陰になっており、その向こうに夕焼けの空、紫なす雲のうねりは、何だか心象風景のようである。
それと対置させているのは、明治の洋画家浅井忠の《雲》(1903)である。
山々の向うに雲がもくもくと立ち上がって、それにダイナミックな昼光が当っている。
前者は高橋コレクションから、後者品は県美所蔵品である。
小西紀行の奇妙な人物画(どれも《無題》2007-14/高橋)は、横浜トリエンナーレ2017でも観ている。
人間であることは判るが、顔の造作は敢えて殴り描きのようになっている。
第2章に展示されている加藤泉の人物と共通するところがあるように思う。
加藤の作品も《Untitled》(2001-04/)とか《マエ》(1999/共に高橋)とか、人物の特定性・固有性を拒否する姿勢がある。左右に離れた両目、長く下膨れの胴、子供または胎児のようにも見える。
第2章「おとなこども」
会田誠の《大山椒魚》(2003/高橋)と対置されているのは、中村岳陵の《婉膩水韻》(1931/県美)である。
前者は、マンガ的な線描きの裸体の2少女が巨大なサンショウウオと戯れている図。
314×420の大作。色彩は殆ど押さえられている。
サンショウウオのぶつぶつぬめぬめした肌のリアリティに対して、少女は極くさらりと描かれている。周囲の波形は、更に類型化されて扇型の紋様となっている。
明らかに性的な含意があるが、エロティシズムを感じさせない施しとなっている。
後者は、六曲一隻の屏風仕立て。153×368.1。
清流に泳ぐ、黒く長い髪の全裸の娘。
昭和初期とすれば、日本画として例を見ない大胆なモチーフで、官憲から目をつけられたかもしれない。しかし、女体からは色気は全く発散されず、健康そうでおおらかなイメージ。
彼女が動かす手脚によって、飛沫と水紋が川面にできている。リアリティを出そうという画家の思いに反して、日本画の限界か、それらは如何にも類型的で、動感に乏しい。
水の色、岸辺の草の色、共に緑系の色彩でまとめられている。
第3章「なぞらえ」
富士山の横の海上に赤い太陽がある、横山大観の《日出処日本》(1940/個人蔵)。
その隣に束芋のインスタレーション《にっぽんのちっちゃい台所》(2003/高橋)が展示されているのは、実に面白い。
大観の太陽は、国粋主義者の信奉する日本の神の象徴であり、束芋の日の丸は、ちゃかした偽悪趣味のそれである。
大観は更に富士山でも、西尾康之の《FUJI》(2013/高橋)と対置される。
西尾の陰刻鋳造作品の富士山は、女神だろうか女性プロレスラーだろうか、その素晴らしい筋肉の飛び蹴りによって、あの見事な山頂が噴火しつつ千切れ飛んでいる。
西尾作品は、ロダン館にも展示されている、《素粒の鎧》(1997/高橋)。
これがここに置かれているということは、ロダンの群像、特に《カレーの市民》の試作(1884-88?/県美)と対置したのだろうか。
静岡県立美術館ロダン館の《カレーの市民》試作品は、東京国立西洋美術館前庭のそれと異なり、6体が分離された形になっている。
以下、今展のホームページ。
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/exhibition/detail/26#exhi_work
文中の下記作品の画像が掲載されているので、ご覧頂けたらと思う。
・青山悟《夕暮れの新宿》
・会田誠《大山椒魚》
・中村岳陵《婉膩水韻》…部分
・横山大観《日出処日本》
・西尾康之《FUJI》
撮影可となっていたため私が携帯で撮ったものも貼り付けておく。
西尾康之《素粒の鎧》(1997)
伊藤若冲《樹花鳥獣図屏風》(原本は18世紀後半/県美)
…高精細レプリカ
teamLab《世界は統合されつつ、分割もされ、繰り返しつつ、いつも違う》(2013/高橋)
…若冲の有名な升目画《樹花鳥獣図屏風》の升目を、電子ピクセルにより動きを入れ、インタラクティブ作品に仕上げた。観る人の影を感知して、画像に表現することもできる。
音楽:高橋英明
県立美術館では、他に収蔵品展「富士山と静岡ゆかりの画家たち」を観た。
・会期 ’17.12/19〜’18.2/28
久し振りにロダン館にも寄った。
《地獄の門》《考える人》含むロダン作品32点と、ロダン以前と以後の彫刻作品を展示していた。
以後では、バルラハやブールデル,マイヨール,ゴーギャン,ブランクーシ,ムアなど。
館内のレストラン「ロダン・テラス」で遅い昼食、牡蠣と水菜のペペロンチーニのセット。
帰りはJR在来線で静岡駅迄移動、駅前の静岡市美術館に寄った。
(続く)
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