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2017年06月06日23:04

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三浦綾子の言葉

 ここで思い出すのは、長尾巻という牧師夫妻のことである。乞食が来ると、白いご飯を炊いて、それを握り飯にして食べさせたという。この牧師一家も貧しい生活だった。人が見かねて、
「先生、乞食など、冷たい麦飯でいいではないですか」
と言うと、夫妻は答えた。
「いやいや、あの人たちはいつも残飯ばかり食べています。せめてわたしたちの家に来た時ぐらい、あたたかいご飯を食べさせてやりたいのです」

 この牧師が転任の時、駅のホームに大勢の乞食が見送りに来ていたという。セキさんと言い、長尾巻先生夫妻と言い、私たちの思いとは、なんとちがった高さにあるのだろう。聖書には、
<この小さき者になしたるは、われになしたるなり>
というキリストの言葉がある。小さき者とは、人にもらうばかりで、お返しのできない者をいう。そうした貧しい人たちに、水一杯でも上げることができたら、それはキリストに水を捧げたことと同等にキリストは見て下さる、ということである。

 私たちも心から、子供や、病人や、囚人や、不当な扱いを受けている人々などに、同じ線上に立って交わりをなすものでありたいものだ。私たち救われるに値しない小さなものを、キリストは十字架の死という代価を払って救ってくださったのであるから。

(三浦綾子『小さな一歩から』)
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