「氷点」発表50周年で、大きなできごとがあった年でした。氷点関連の書物発刊 4月25日 「ごめんなさいといえる」三浦綾子 https://www.facebook.com/pages/三浦綾子読書会/296384877097509?sk=insights§ion=navPosts 4月25日 「『氷点』解凍」森下辰
『【愛は「死ね」とは言わぬ】愛とは何かと問われると、わたしたちは何と答えることだろう。 「愛とは忍ぶことである」「愛とは絶望しないことである」「愛とは許すことである」等々、色々な答がでる。それほど、愛という言葉には、沢山のものが含まれてい
学校は愛を教える所だと思ってます。先生が愛を持って自分を見てくれている、と思うと、この人のためにがんばろうという気になる。子供だけじゃなくて、人間ってそういうもんじゃないですか?(三浦綾子対話集2)
キリストに従うことは、十字架を負うことなのだ。(中略)私にとって、体が弱いということは、一つの十字架である。だがわたしは、この十字架を神がわたしのために用意してくれた十字架として、喜んで負っていかなければならない。(三浦綾子『北国日記』)
葉っぱを見ると、みんな広がっていますでしょう。タンポポにしても何にしても、みんな葉っぱが広がっています。みんなで同じ光受けようね、雨を受けようね―という感じで広がっています。それこそ弱肉強食なんかじゃないですよね。(三浦綾子対話集2)
「しんぼうは降伏の拒絶である」(ガイローネ) 世に三日坊主という言葉がある。わたしなど三日どころか一日坊主である。善いと聞いたことはすぐに思い立って試しにやってはみる。が、長続きはしない。善いことさえ続かぬ人間に、辛いこと、または悪状況をじ
私は、神様がつくられた少数のものではなくて、すべて万のものは神様がつくられたものだから何を見ても感動します。(三浦綾子対話集2)
「神は愛なり」と言いますけれど、ほかのものを愛なりとは『聖書』には書かれていない。「互いに愛し合いなさい」と説いてあっても、それは神の愛を学ぶことだろうと思うんですね。(三浦綾子対話集2)
わたしたちの今日の一日を、ここで一人一人顧みていただきたい。今日の一日は、あなたの人生に、あってもなくてもよい一日だったか。どうしても、なくてはならぬすばらしい一日だったか。もしくは全くなかったほうがよかったような一日だったか。 そしてまた
『愛は自然に湧くのではなく、学ぶことによって得られるのだ。むろん、生来優しい傾向の人間はいる。 だが、一度も愛そうとする意志を持たずに、どうして人に優しくすることができるだろう。 愛は意志なのだ。とにかく学ぶ気になれば、この世には実に多くの
人生には、若い人も、老人も、病人も、健康な人も、時に大変な困難にあうことがある。(もう駄目だ! 絶望だ!)と、叫びたくなることがある。が、いかなる場合にも、自分の人生を投げ出してはならない。(三浦綾子「孤独のとなり」)
とどめようもない月日の流れの早さに、ふと不気味さを感ずる。「神よ、時とは何ですか」。<泣くに時あり、笑うに時あり、すべてに時あり>時は神の恵みなのだ。もし今日只今、時が停止してしまったとしたら、いったい人間はどういうことになるのか。(三浦綾
『人間が持つべき真実の生き甲斐とは、いかなる人間にも通用するものでなければならないと思っています。 その人が生き甲斐と思っているものを取り去った時、果たして何が残るか。只むなしさだけが残るとしたら、わたしはその人の生きがいと思っていたものを
その死ぬということをどういうふうに毎日受けとめていくべきか。これは自分自身の死を考えることであり、自分の死を考えることは自分の生を考えることですけれども、やっぱり人の死を考えることは人の生を考えることですよね。(三浦綾子対話集2)
自分をいとおしんで欲しいのです。愛して欲しいのです。自分を正しく愛することが多ければ、人を正しく愛することも多くなると思います。(三浦綾子「藍色の便箋」)
国を愛する愛し方というのは、ひと通りしかないと思いこんではなりませんわな。人間は十人十色です。戦争に協力するばかりが愛国心ではない。政府に協力するばかりが愛国心ではない。反対するのもまた、愛国心の然らしむるところです。戦争に向かう人間たちの
「これが時代というものだよ」誰かがそう言いました。それでは時代とはいったい何なのか。今まで正しいとされて来たことが間違ったことになるのが時代だと言うのか。いつの時代でも悪いことを「時代」や「社会」のせいにしてしまってことたれりとする風潮があ
「持っているもので、もらっていないものはない」との聖句を思いつつ、聖壇の前の机に積まれた果物や野菜を眺める。「収穫」の二字にも、限りなく深い意味あり。真理あり、恵みあり、当たり前のことにあらず。(三浦綾子『難病日記』)
主よ なぜですかなぜ赤いナナカマドも緑濃い針葉樹も空に向かって立っているのですか人間もまた空に向かって立っているべきなのですねでもなぜかうつ向いて天を見上げようとはしないのですどうか天にいます父なる神を仰ぐ者と ならせてください(『祈りの風景
このような混沌として、疎外感と無力感におそわれるような世の中だから、人間として、日本人として、愛し合い、信じ合い、隣人と対話し、同じ考えの仲間が手をつなぎあえるようになれたら、どんなにうれしいでしょう。(三浦綾子『私にとって書くということ』
許してください、と言われないと人は許すことはできなんですよね。神様だって、許してください、と言わない人は許すことはできない。お前の罪を許してやる、と言っても、私には罪なんかありません、許してもらう筋合いはありません、という気持ちでは許しにな
確かに自分は愚かである。弱い者である、みにくい者であると、自分を神に明け渡したはずだったのに、すぐにそのことを忘れ、神により頼むよりも、自分の知恵に依り頼む。毎日がこの繰り返しではないだろうか。信仰があると称しながら、なんとおそまつな信仰で
「艱難はうちひしがれるためにあるのではない」「艱難(かんなん)は、それにうちひしがれるためにあるのではないのです。それは、のりこえるためにあるのです。もし、のりこえることができなければ、身を屈めて、その艱難をくぐりぬけて下さい。小さく小さく
ともあれ病気になると、人のやさしい言葉が何ものにもまさってうれしい。その何ものにもまさってうれしい言葉を、わたしもまた病める人々に、老いた人々に、悲しんでいる人々に、上げたいと切実に思う。(三浦綾子『北国日記』)