時期がくれば木々は紅葉し、虫はすだき、鳥は渡り、雪は降る人間も被造物の1つ今少しく謙虚でありたい(三浦綾子、三浦光世、後山一郎『綾子・光世 愛 つむいで』)
人生は大抵プラスマイナスの勘定が合わないようにできているのです。 例えば、十のことを人にして上げるとします。そのお返しに十返れば、これで勘定はきっちり合うわけです。でも、このようにきっちりと勘定の合うように人生を送っている人が、あなたの周囲
人生にはピリオドは唯一つで、あとはコンマ、コンマの連続だという思いがしきりにした。最後の終止符を打つまでは、人生いろいろなところでコンマが打たれるのだ。(三浦綾子『石の森』)
「受くるより与うるは幸いなり」というすばらしい聖書の言葉を思った。そうだ、自分の姿ばかりを見つめ、自分の悩みにのみ嘆き沈むよりも、人々を慰め、励まさなければならぬ。わたしはそう思った。 (三浦綾子 『あさっての風』)
私はよく思うことがある。もし自分の命があと一年とわかったとしたら、人はどんな生き方をするだろうか、と。どうしてもしなければならないことと、してもしなくてもいいこととのけじめができていれば、私たちは先ず必要なことのために時間を使うことができる
私は「頭」で生きてゆくつもりも「胸」で生きてゆくつもりもありません。爪の先、髪の毛一本に至るまで、私の生命が流れていることを想い、全身で生きてゆくつもりです。(三浦綾子『生命に刻まれし愛のかたみ』)
小説を書く時、私は、自分の感動した事柄を核として、書きはじめる。自分が感動もしないことを、人に感動させるわけにはいかない。読者が泣いて読んだと書いてきた小説は、私が、その読者よりも、倍も泣いて書いた小説である。それほどの感動を持たなければ、
わたしたちひとりひとりの命はかけがえのないものだ。そのかけがえのない命を、生かされるままに、せいいっぱいに生きて行くすなおさをわたしは持ちたいと思っている。(三浦綾子『あさっての風』)
言葉は生きものなのだ。心に蒔かれた言葉は、どんな形かに成長する。悪い言葉は悪い実を、よい言葉はよい実を結ばせる。私たちは、自分が今聞いている言葉が、どんな意味を持つのか、十分に聞き分ける必要がある。不要な言葉か必要な言葉か、識別する必要が
やさしさとは、相手の身になって考えると共に、そのやさしさを意志によって持続することにあると思う。意志と知性に支えられないやさしさは、それはいわば、気まぐれであって、真のやさしさではない。(三浦綾子『孤独のとなり』)
「人が死んで、後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」というジェラール・シャンドリーの言葉があります。多く集めた人が、歴史に残るのだと思って胸像やなんか建てたりしますけれども、やがて時が経つと、けとばされた
人生とは、まことにふしぎなものである。たしかに、自分の予定していたようには、人生は展開しない。突如として思いがけないことが起こるものなのだ。(三浦綾子「道ありき」)
「みんながしとるもん、みんなが着とるもん、みんなが使っとるもん、みんなが言いよったら、悪いことまでせんならんようになるわ。みんながしとっても、ええことはええ、あかんことはあかん。」(三浦綾子『ちいろば先生物語』)
「ねえ、旦那(だんな)。しかし、わっしは毎年思うんだが、この地球上から人間が一人もいなくなっても、木はちっとも「困らねえ。だがねえ、木が一本もなくなりゃあ、こりゃあ人間は困る。こんなに伐(き)ってもいいんかなあ」( 三浦綾子『天北原野』より
自分の弱点、欠点に気づく能力、それは光を見つめる人だけに与えられる。 光はすべてを照らすからだ。(三浦綾子 『北国日記』)
『人間一人が、死ぬか生きるかの目に遭っていても、傍の者からは、この程度にしか受止められぬこともある、ということをその時身をもって知りましたなあ。 目に見える形のことさえそうであれば、まして、目に見えぬ心の悩みなど、人は気づかぬものでしょう
あいさつとは「心をひらいて迫ること」だそうだ。迫るとは近づくことだ。心をひらいて人に近づくのは、人間としての基本的なあり方である。(三浦綾子「」孤独のとなり」)
世間の人はみんな、世間体が悪いからとか、人に指されないようにするとか、人さまに恥ずかしいと言って自分の行動を決めているわ。世間というのは、わたしに言わせれば一つの良識なのよ。(三浦綾子『水なき雲』)
愛されたい。ああこの感情は人間への刑罰。なぜなら、真実に愛しうる人間はこの世にいないのだから。(三浦綾子『帰りこぬ風』)
孤独を埋めるもの、それが何であるかを、今から探し求めて行ってください。孤独の影が深い人こそ、人生を深く生きているといえることもあるのです。(三浦綾子『新しき鍵』)