「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」(三浦綾子『続・氷点』上)
歩いていて転ぶ時と一生懸命走っていて転ぶ時と、いずれが痛いか。いずれの傷が大きいか。傷は一生懸命に、真実を生きたことのしるしだ。 〈三浦綾子『太陽はいつも雲の上に』〉
まったく人生は、常に突然のできごとに会うものですね。病気や、火事や、交通事故、そして地震など、それは常に突如として起こるものであることと、わたしたちはじゅうぶん知っているはずですのに、何といつも不用意なことでしょう。いつも事が起こってから、
わたしが死にたいと願ったあの夜の海辺では、わたしは死ぬことができなかった。しかし、いままた生きようと思いはじめた時に、死はいつわたしの上に訪れるか、わからないのだ。死にたいということは、わたしの強烈な願いであり、意思であったはずなのに、しか
原子力発電というのがあります。あれをやったらどれだけいいことがあるのか、私には分かりませんがとにかく安いんだそうです。安ければいいんですか。あそこでできたものがものすごく恐ろしいもので、その廃棄物をどこにやったらいいかと今、幌延(ほろのべ)問
自分の隣人を愛するということを生活の中にいかすには、人生を意志的に生きなければできることではありません。誰だって「ああかわいそうだな」と思うことはあっても、自分の損になることはしたくないものです。自分の中に隣の人のことを考えられる場所をもつ
馴れるということは、何と恐ろしいことであろう。馴れることによって、感謝すべきことさえ不満の種になってしまうのだ。(三浦綾子「愛すること信ずること」)
わたしたちひとりひとりの命はかけがえのないものだ。そのかけがえのない命を、生かされるままに、せいいっぱいに生きて行くすなおさをわたしは持ちたいと思っている。(三浦綾子『あさっての風』)
私たちのほうから挨拶してみませんか。「お元気ですか」 とこちらから先に声をかけてみませんか。誰もがそれを望んでいるのです。人が悪意を持っていると感ずる時、大ていの場合誤解が多いのです。(三浦綾子『風はいずこより』)
わたしたちは、自分の罪を計る物差と、人の罪を計る物差と、二つを持っているとわたしは書いた。自分に都合のいいはかりを持っている。これが自己中心のあらわれである。この自己中心が罪のもとだと、わたしたちは教えられている。自分中心にものを考えること
「月や花は、人が美しいと言おうが言うまいが美しい。同じく、みにくいものも、ほめられようがけなされようが、みにくいのだ」(三浦綾子『愛すること信ずること』)
自分の目で、自分という人間を、みつめうる限りみつめようとする態度、それが毎日継続されることによって、わたしたちは自分を成長させることができるのではないだろか。自己凝視のないところに、けっして成長はない。(三浦綾子『あさっての風』)
私たちは、大勢の人と同じであることに、変な安心感を持っています。ミニスカートがはやると、誰もがミニスカートをはきたがります。ロングスカートがはやれば、まるで命令でもされたかのように、日本国中ロングスカートで溢れます。一つの髪型がはやれば、自
人間は自分の舌で自分を不幸にもし、人をも不幸にしている。またその舌で自分を幸福にし、人を幸福にもする。(三浦綾子「北国日記」)
人生は選択なのだ。進学、就職、結婚等々、次々に重大な選択を迫られる。その時、私たちの選択 の基準が、みんなに笑われるとか、叱られるからとか、流行だからというようなことに置かれるとするな らば、自分自身の人生を放棄することにさえなる。(三浦綾子
人生順調な時があり、不遇な時がある。不幸に見える時があり、幸福に見える時がある。 いずれにしても絶望する必要もなければ有頂天になる必要もない。いつの日も光は私たちのすぐ隣りにあると信じたい。(三浦綾子『小さな一歩から』)