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2016年04月22日19:09

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高島野十郎展/目黒区美術館

今回の上京は歌舞伎がメインだったが、併せて行く事ができたmuseamでも、それぞれ素晴らしいものを観る事ができた。

最初に訪れたのは目黒区美術館である。
ここには初めてやってきた。
他にも、行く先はいろいろ検討したが、高島野十郎作品をまとめて観る機会はめったにないだろう、このチャンスを逃したら後悔するに違いない、そう考えた。

JR目黒駅の西口に出、マップを手に見回していると、品の良さそうな初老のご婦人が、何かお探しですか?と訊いてくれた。
・・・この坂(権之助坂)を下りると、川(目黒川)に出ますから、橋を渡って右に行けば、テニスコート等あります。その向こうですよ、と丁寧に、にこやかな表情で教えて下さった。
ありがたかった。
行く途中で蕎麦屋に寄り、お昼に麦とろ定食を食べた。駅から美術館への行程は徒歩約10分。
目黒川の川面に続く新緑は桜らしい。もう少し早ければ桜がさぞ美しかったろう。

展覧会の正式名称は、「没後40年 高島野十郎展〜光と闇、魂の軌跡」。
 会期 4/9〜6/5
野十郎は1890(明治23)年福岡県に生まれ、1975(昭和50)年千葉県で死んだ。85歳。
展覧会は、昨年12月福岡県立美術館から始まり、ここの次は足利市立美術館、そして九州芸文館へと巡回する。

高島野十郎、と言っても知らない人の方が多いかもしれない。
「蠟燭の画家」という通り名でTVに採り上げられた事もあるらしく、好きな人はかなりのマニアか。
彼の作品が147点と資料が7件、規模の大きな回顧展になった。内、19点が蠟燭の絵である。
《蠟燭》は展覧会に出品する目的では描かなかったらしい。友人、知人に贈呈するのが専らだったようだ。

謎の多い画家である。どのように技術を習得して画家になったのか、海外留学先の何処で誰から何を教わったのか、殆ど知られていない。
また、絵そのものにも謎が多く、本人も多くを語らない人で、一層謎の画家というイメージが強まった。
大学は東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業しているが、すぐ画家への道を踏み出す。
卒業の際、天皇陛下から恩賜の銀時計授与の候補に推挙されたが、辞退してしまった。周囲からは驚愕の目で見られた。辞退の理由も伝わっていない。
想像するに、水産学科の優秀な学歴に対して天皇から恩賜を受けてしまったら、それと全く無関係な画家へ転身する事は憚られる、そう思ったのではないか。

大学時代は独学で絵を学んでいたらしい。
卒業後、1927年、38歳の時、「黒牛会」なる美術組織を7人で結成し、3度展覧会を開催するが、解散。会の趣旨もよく判らない。
その後は2度と徒党を組む事なく、1人で活動した。
1930年、40歳の時アメリカ経由でヨーロッパに留学した。パリを中心に、イギリス,イタリアを訪れた。
美術館や教会で古典絵画を観る他、風景写生をして回った事は判っているが、留学生仲間で交歓する事もなく、誰かに師事した様子もない。
他の画風ならともかく、写実に超が付く程のデッサンと油彩の技術が、一体独学で得られるものだろうか。

展示作品は、14〜19歳頃の習作から77歳頃迄に描かれたものが並んでいる。
展覧会の構成は以下の通り、

第1章 初期作品〜理想に燃えて
第2章 滞欧期〜心軽やかな異国体験
第3章 風景〜旅する画家
第4章 静物〜小さな宇宙
第5章 光と闇〜太陽、月、蠟燭

第1章では、大正時代の作品(36歳迄)を中心に展示されている。
その中には、独特な自画像が含まれ、その延長上で、後に描いた人物画も並べられている。
彼の作品の中では人物をモチーフにしたものは極めて少ない。
初期作品では、自画像でも風景画でも静物画でも、波打つ描線が極めて癖の強い主張を持っている。
衣服の襞、木の枝、花のくき等、うねるように描かれている。ゴッホ(1853-90)の影響と見る人もいる。
静物画の細密な写実は、同時代の岸田劉生(1891-1929)のスタイルに近いものがある。
これらは、共に雑誌〈白樺〉が関係しているだろう。
〈白樺〉は1910年の創刊で、日本における西洋美術の受容に大きな影響力を持った。ロダン、ゴッホ、セザンヌ、ルノワール等が同誌で紹介された。
岸田劉生も〈白樺〉に寄稿し、また表紙絵を描いた。
雑誌〈白樺〉の創刊(1910)から廃刊(1923)の時期は、野十郎の学生時代と修業時代にぴったり合致する。

第2章は、1930〜33年、野十郎が欧州滞在中に描かれた作品である。全て風景画。
第1章は暗い色調が多かったが、この章の作品は比較的明るい。
筆致や色彩には印象派の影響が見られ、前章での表現主義的な重苦しいトーンは見られない。
日本を離れ、解放された気分が絵に出ているようだ。
初期の作風を見れば察知できるが、彼は本当はドイツで学びたかったのだが、叶わずフランス中心に滞在する事になったのである。

第3章では、ヨーロッパから帰った1933年から死んだ1975年迄の風景画が並んでいる。中心は1950年代頃の作品。
留学から帰ってしばらくは九州の生家に住むが、1936年、45歳の年に東京に出た。
結婚もせず、気軽に旅を続け、その先々で風景画を描く。法隆寺や有明海等、名のある場所だけでなく、取材地が何処か判らないものも多々ある。

興味深いのは、焦点が、絵の前景でも遠景でも、画中の何処でも合っている事だ。
その点は西洋の風景画と甚だしく違う。西洋の風景画では焦点を近景のある1ヶ所に定めたら、それ以外はぼかしていくのが普通だが、野十郎の絵では、絵の中央でも隅でもしっかりフォーカスして描き込んでいる。

彼の遺稿ノートには「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」とメモされている。
野十郎は兄の影響で、仏教に深い関心を持ち、繰り返し参禅した。
彼の不思議な写実は、信仰と関係があるようだ。
中心にあるものだけが大事なのではない、隅にあるものも同様に重要である、彼は絵を通してそう言っているようだ。

こうも書いている、
「天体までのきよりは言語を絶する、
眼前一尺のきよりも又然り」。
「きより」は「距離」である。
また、「寫実の極致、やるせない人間の息づき―それを慈悲といふ」とも。

その延長上に第4章があるのは、言う迄もない。
この章の絵の制作年代もやはり幅広い。
ここにあるモチーフは、リンゴやブドウ、モモ等の果物類、花の類で、器に入れられ、テーブルに敷かれた布の上に置かれている。
主役である果物や花だけでなく、布の質感や襞の具合迄、濃密に描き込まれている。
ただ、第2次大戦前頃迄は、斜め上からの光源が明らかで、それが作り出す影がはっきりしていたが、戦後になると、光は全体を隈なく包み込むようになる。影は自ずから薄くなる。その光は仏から発するかのようだ。

第5章は、野十郎作品の中で最も独特なシリーズ群である。
これらでは、光と影が生み出す世界でなく、光そのもの、影そのものがテーマになっている。
蠟燭のシリーズは、ほぼ構図は同じながら、炎の揺らめきや、闇の深さ等、どれも少しずつ違う。
月は、当初具体的なある場所の光景の中にあったが、次第に背景は遠ざかり、とうとう月だけが描かれた絵になってしまう。
彼の画集における言葉、
「月ではなく闇を描きたかった、闇を描くために月を描いた、月は闇を覗くために開けた穴です」。

展覧会を観れば高島野十郎の謎が少しは解けるかと思っていたが、その闇は今もまだ濃い。

作品画像は、以下の特設サイトでご覧頂きたい。
http://www.tnc.co.jp/takashimayajuro40/art/#anchor_art
 

 (続く)
 
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