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2015年09月27日23:34

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「エリック・サティとその時代展」/浜松市美術館

9/26(土)、自治会の防災訓練の事前準備で可搬ポンプによる放水訓練をやった後、浜松市美術館に「エリック・サティとその時代展」を観に行く。
Bunkamuraザ・ミュージアムからの巡回である。
・会期 9/12〜11/1

当日はちょうどギャラリー・トークが14:00より行われたので参加した。
解説は当館学芸員の生熊周。
その話を含めて、以下レポートする事とする。

エリック・サティ(1866-1925)自身は作曲家で美術創作をした訳ではない。彼の斬新な音楽活動が時代の芸術家達の興味を惹き、彼の周囲に多くのアーティストが集まった。
この展覧会は、そうした人々の作品を展示し、サティとの関係を示し、ひいてはその時代を再現しようとするものである。

関係した美術家の名前を列記してみると、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)、パブロ・ピカソ(1881-1973)、ジョルジュ・ブラック(1882-1963)、コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)、フランシス・ピカビア(1879-1953)、アンドレ・ドラン(1880-1954)、マン・レイ(1890-1976)等々である。
美術以外で関係の深かった人物というと、クロード・ドビュッシー(1862-1918)、モーリス・ラヴェル(1875-1937)、セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)、ジャン・コクトー(1889-1963)等。

それは1880年代〜1920年代のパリの縮図と言ってもいいかもしれない。ベル・エポックの時代を完全に包含してもいる。

展覧会の構成は以下の通り。

第1章「モンマルトルでの第一歩」
第2章「秘教的なサティ」
第3章「アルクイユにて」
第4章「モンパルナスのモダニスズムのなかで」
第5章「サティの受容」

これはほぼ時代順になっている。

◆第1章;

サティは1879年にパリ音楽院に入るが、身が入らず、逃げるように一時軍隊に志願するも、そこも辞めてしまう。
その後、モンマルトルに移り住む。

この辺りについては、以下で詳しく書いている。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1939317102&owner_id=3341406

モンマルトルではキャバレー(カフェ・コンセール)「シャ・ノワール(黒猫)」が人気を集めていて、多くの芸術家の卵が出入りしていた。
サティは1887年にここを初めて訪れ、常連客から、歌の伴奏をして収入を得るようになる。
当時、影絵芝居が流行り、その伴奏者としても活躍する。
有名な『ジムノペディ』や『グノシエンヌ』は、1888〜1890年に作曲された。

印刷技術の進歩と伴に芸術的なポスターが作られるようになり、ロートレックの《ムーラン・ルージュ》(1891)等の作品がここには展示されている。
当時のモンマルトルの自由で享楽的な雰囲気がよく漂っている。
ティオフィル=アレクサンドル・スタンランの《シャ・ノワール一座 巡回公演》(1896)に描かれた黒猫の背中がギザギザしているのは、影絵の材料となったブリキのカットされた雰囲気である。

興味深いのはミゲル・ユトリロ(ウトリーリョ)の素描《エリック・サティの肖像》(1889)。サティはこの時23歳。
ミゲル・ユトリロはひと頃シュザンヌ・ヴァラドンと付き合っていた。
東郷青児記念美術館で開催された「ユトリロとヴァラドン」展は、モーリス・ユトリロ(1883-1955)と、母であり恋多き女であり自立した女性画家でもあったヴァラドンの関係を詳解した、実によくできた展覧会だった。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1942840605&owner_id=3341406

上のレポートの中で、ミゲルの事についても触れている。
実際の血の繋がりはよく判らないが、ともかくミゲルはモーリスを認知したのである。その時モーリス7歳。
その後、1893年、ヴァラドンはサティと恋愛関係になり、ミゲルは彼女の許を去っていく。
この絵は、計算上ミゲルがモーリスを認知する直前である。
極めて繊細なタッチでサティを品良く描いている。
この時にミゲルとサティとヴァラドンがどんな関係にあったのか、その微妙なところは判らない。

しかし、サティとヴァラドンの関係も半年で終わってしまう。
サティはその後、一生を独身で過ごす、投函されぬヴァラドン宛ての300通を超える手紙を机の引き出しに残して。
この辺りも、上のurlの文章を参照頂きたい。

サティは絵心も豊かだった人で、第2章に彼が描いた《シュザンヌ・ヴァラドン》(1893)が展示されている。五線譜にインクで描いたもので、戯画的な風である。(→写真1)

◆第2章;
第1と第2章は、年代に若干いりくりがある。

1890年、サティはジョゼファン・ペラダンに出会い、翌年、彼が主宰する秘教結社の薔薇十字会に入って聖歌隊長に任命される。
この章では、この会のメンバーであった象徴主義の画家達の作品が展示されている。
サティはこの薔薇十字会の為に作曲をするが、この会の音楽的理想はワーグナーだった。サティが目指すのはワーグナーの壮大なそれとは正反対である。
彼のBGM的音楽世界を表す『家具の音楽』(1920)については、以下を参照。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1758553075&owner_id=3341406

サティは結局ペラダンと袂を分かつ。

◆第3章;

1898年、サティはアルクイユ=カシャンへ引っ越す。
が、キャバレーの仕事を続けるべく、毎日モンマルトルに通う生活を続ける。
この辺についても、最初のurlで詳細に触れている。

1911年、突然サティは脚光を浴びる事となる。ラヴェルが公の演奏会でサティを採り上げたのである。
高級モード誌〈ガゼット・デュ・ボン・トン〉から、シャルル・マルタンの挿絵入り楽譜集『スポーツと気晴らし』(1914-23)の企画も持ち込まれる。
実は、ストラヴィンスキーに最初は依頼されたのだが、金額的に折り合わず、サティに話が舞い込んだのである。
これについても同じurlを見て頂きたい。

この章では、『スポーツと気晴らし』、マルタンの絵とサティの楽譜を並行して観る事ができる。
これらは、別の視聴コーナーで、音楽(高橋アキ演奏)と一緒に鑑賞できるようになっている。
タイトルを含め、全22点。淡い色彩と線のアール・デコ風イラスト、そして、小節線のない詩的でウィットに富んだ斬新なピース。
タイトルは、それぞれ「ブランコ」「釣り」「ヨットでの航海」「海水浴」「カーニバル」(→写真2)「ゴルフ」「競馬」「ピクニック」「タンゴ」「花火」、等々等々。
順序としては、先に絵が描かれ、後、サティがそれを見ながら作曲をしたらしい。

◆第4章

バレエ・リュスの主宰ディアギレフが、まだ若いコクトーにバレエ台本制作を要請した。
『パラード』というシナリオができて、衣装・舞台装飾をピカソ、音楽をサティが担当する事となった。初演は1917年。その時コクトー28歳、ピカソ37歳、サティ51歳である。
このバレエについては、また別のurlの文章を参照。ピカソが描いた『パラード』の為の幕絵と制作された衣装の写真も貼付してある。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1841176357&owner_id=3341406

バレエの評価は賛否交々で、客席は騒然としたようだが、ともかく反響は大きかった。名前は大いに売れる事となった。
若い前衛的音楽家達は、サティを自分達の先駆者とまつり上げるようになる。

参照の中でも言っているが、このバレエのプログラム寄稿文の中で、アポリネールが初めて「シュルレアリスム」という言葉を使った。

「パラード」というのは、英語のパレードとはニュアンスが異なり、劇場の前で客引きの為に行う、寸劇等を含んだものらしい。

1924年になると、ダダイスト フランシス・ピカビアとスウェーデン・バレエは『本日休演』を制作する。公演の中ではルネ・クレールによる『幕間』という映画が上映されたが、その音楽をサティが担当した。まだ世の中は無声映画が主流だった時代である。

この章では、『パラード』関連の舞台や衣装の下絵、公演の写真、プログラムやポスター等が多数並べられている。

サティは様々な交流を得、ブラック、ブランクーシ等が、サティ関連をモチーフにした作品を制作するようになった。

◆第5章;

サティは1925年に病没するが、その後も、彼の名前や作品は国内外に広まっていく。
マン・レイは、「眼を持った唯一の音楽家」とサティを称し、オマージュする作品を作った。
『エリック・サティの梨』(1968/→写真3)
アンドレ・ドランは、没後発見されたマリオネット・オペラの為に、舞台美術と衣装のデザインを手がけた。

 
〈付記〉
生を聴く企画もあるが、それ以外の日には、『ジムノペディ』他数曲を、自動演奏機能付きピアノで聴く事ができる。
演奏は今西康彦。
 
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