4/18(土)、シネマera浜松で『愛して飲んで歌って』を観た事は、昨日書いた。
上映時間がその日1番10:00〜11:50と早かった事から、午後はまだたっぷりある。
快晴という訳ではないが、陽射しも柔らかである。
こんな土曜の午後は少し遠出してもいいかなと思わせる。
era提携駐車場から車を出して南へ、そして東海道を西へ向かう。
行く先は湖西市である。名前で判る通り、浜名湖の西側に位置する。
当日の中日新聞朝刊に、トキワマンサクが満開、大木が”雪化粧”したようだとの記事が載っていたのを思い出したからだ。
湖西市は幾度か行った事はあるが、詳しくない。ナビを頼りに春のドライブとなった。
40分程走り、湖西市の市民会館に寄った。
トキワマンサクの情報が得られないかと思ったからだ。当てずっぽうに入れてみたが、ナビでは群生地の場所は判らなかった。
土曜の午後とて窓口に人の気配はなかったが、カウンターの奥からのっそり出てきたおじさんが、行き方を訥々と教えてくれ、マップも頂いた。
神座という地名、”かんざ”と読むのだという事が判った。
国道301号線を北へ、湖西中学の角で西へ入る。
近くには小さな神座川が流れている。
途中に神座集落センターがあった。
朝刊記事によると、翌4/19(日)にはここでトキワマンサクまつりが行われると書いてあった。地元の人達が集まり、明日の準備をしているようだった。
しかし、明日の天気予報は雨である。
センターを越えてじきにトキワマンサク駐車場が左側にあった。
ここからは歩きだ。
如何にも手作りの立て札に従い、県道を離れてウォーキングコースへ入る。
家並を行き過ごすと神座川のすぐ脇に出る。
広がる田んぼにはまだ何も植わっていない。その上を、土の匂いの混じった春の風がのんびりと吹いてくる。
400m程歩くと、薄いクリーム色の花を枝先にいっぱいに付けたトキワマンサクの群生地に着く。
1つ1つにリボンを細く切ったような花びらがたくさんくっいている。
300�屬�80株程の株が集中していて、たわわな枝先は下を向いて時折り吹く風に揺れる。
日本にトキワマンサクの群生地は3ヶ所しかないそうだ。伊勢神宮にもあるが、ここが最も大きな群れだとの事。
元々中国南東部やインド北東部が原産地らしく、ここは北限群生地として認められ、県の天然記念物にも指定されている。
少し歩くと、単独の株はあちこちにあって、花は咲いていたり、もう終わっていたり、様々。
木の高さは5m以上のものもある。
更に歩くと、紅紫色の花を付けた株もある。
近寄って見ると花の形はよく似ている、が、幹は太くない。
家に帰って調べると、ベニバナマンサクと言って変種らしい。
マンサクは、早春まだ寒い頃黄色の花を咲かせる種があるのは知っている。
新年まっさきに咲くからマンサクと名付けられたとの逸話がある。
奥浜名湖の三ヶ日にマンサクの群落がある事は知っていたが、それとトキワマンサクとは属が異なるとの事。マンサクの方が樹高は高くなる。
湖西神座のトキワマンサク群生の花は、5月上旬迄楽しめる由。
目的は取り敢えず達成されたのだが、市民会館で貰ったマップに、神座古墳群なるものがその道の先に記されていて、気になった。
距離はそう大した事はなさそうだと、行ってみる事にした。
しかし、群生地の先を折れると、整備されない山道に入った。
道はくねくねと曲がっている。
脇には、シダ類やゼンマイやらが生き生きと背伸びし、ノイバラも、道のここかしこから芽を出している。
季節には早いが草々の濃い匂いが立ち始め、肺に深々と入ってくるのが心地好い。
道の両側に、岩の欠片が散らばっているのが見えてくる。
ここらはカルスト地形なのだろうか。
大きな岩がにょきっと山の斜面から顔を出しているところもある。
神座というのだから、この辺りは古来神聖な土地で、神が降り立ったと人々は信じたのだろう。
神座配水場の裏手を回って更に山道を上ると、次第に岩が多く大きくなる。
嵩山(すやま)山頂への途中で、馬の背のようになだらかな場所に出る直前に、厳しい形の巨岩が屹立している。
岩巣(いわす)という峰の名はまさにこの地形から来ているのだろう。
こんな場所にこそ神は降りるに違いない、そんな風に思ったのだった。
岩の隙間からは、中尾平の盆地が見え、その西の峰の向こうはもう愛知県の豊橋市である。
岩場から馬の背を下りていくと、そこに古墳群はあった。
管理されず柵もなく、古墳の上迄歩いて行ける。
小岩を土に埋め込んで通路のようにしている造作が足下に見える。
その中心にいにしえは石室があったに違いない。
今は墳墓の土盛りは削れて、なだらかになってしまっている。
神座古墳群は1,400年前に作られたとマップに書いてある。
直径10m程の円墳が7基あるとの事だが、明確に数える事はできない。
誰の墳墓だったかも判っていない。
2011年に駒澤大学の発掘調査隊が入ったという情報もネット上にはあるが、現地にはその痕跡もない。
放っておけば、このまま雨風に塵となって消えてしまうに違いない。
残念な事だ。
日本史における古墳時代というのは、3世紀後半から7世紀半ば迄、ヤマト中央政権が確立する前迄を言うが、実際には、その後も古墳は作られ、関東では8世紀始め、東北では8世紀末迄築造されたと言われる。
巨大な前方後円墳は、4世紀末〜5世紀末迄の古墳時代中期に分類される。
1,400年前というと、600年代7世紀で、古墳時代後期に区分される。前方後円墳はもう作られず、形状は方墳,円墳が主。横穴石室を持つものが現れている。
上の写真の小岩の通路も、横穴石室へ通ずるものだったのではなかろうか。
古墳群に触れた嵩山の中腹から、急な下り坂を一気に下りると、そこは、東雲寺(とううんじ)摩利支天(まりしてん)堂の真裏である。
摩利子天は、災難を取り除き利益をもたらす仏教天部の1つで、徳川家康や歴代の大名も武運を祈って崇敬したという。
今では、安産・豊漁・勝負事のご利益を実現するとして信仰を集めているが、僧職は常駐していない。
2月には大祭があり、植木の初市や露天商が並び、参詣者が摩利支天の堂前に長蛇をなすとの事だが、今は誰ひとり擦れ違わない。
堂の中には自由に入る事ができる。
奥の室をガラス戸から見やると、よく磨かれた鏡が三方の台上に立てられている。鏡は天照大神の象徴であり、東雲寺とは言っても、何だか神社のようだ。
この裏山は元々神が下りる山であった訳で、寺院が建てられる以前から、神と近い場所であったろう。
日本ではよくある例だが、神社と寺院が一緒になって地域の信仰の対象となっている、ここもそんな場所であったのかもしれない。
2時間程も歩いたろうか。
急な思い付きの遠出になったが、地域と密着したウォーキングとなり、少しばかり幸せを身内に感じつつ、浜松へと帰ってきた。
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