mixiユーザー(id:3341406)

2014年11月11日17:29

587 view

小村雪岱展/資生堂アートハウス〜山下裕二講演

11/8の日記の続き、その2である。

既に書いたように、先に山下裕二の特別講演会が駅前の掛川グランドホテルで行われ、その後、資生堂のマイクロバスでアートハウスへ移動した。
今回は講演を中心にレポートしたいと思う。

講演タイトル;「昭和の春信・小村雪岱を応援する〜挿絵、装幀を中心に」
展覧会タイトル;「小村雪岱展〜挿絵、装幀、雪岱版画」
・会期 10/1〜12/14

講演会は無料だが事前申し込み要、となっていた。
定員は100名で、会場はいっぱいだったから、抽籤に当たったのだろう。
早目に受付のチェックを済ませ、一番前で話を聴けた。ラッキーだった。

タイトルに「応援する」とあるが、何の事だろうと思っていた。講演によりその本意はよく判った。それについては、おいおい書く。
ともかく、山下はまず小村雪岱が大好きなのだ。
話は実に上手い、参加者とのコミュニケーションを織り交ぜて注目させ、笑いも取り、そして、小村雪岱に対する熱意も溢れた。

用意された資料は「小村雪岱略年譜」、A4、4ページ。
雪岱著『日本橋檜物町』(平凡社ライブラリー2006年発行)より、「挿絵のモデル〜個性なき女性を描いて」の章のコピー、A4、2ページ。
その他。

小村雪岱(本名泰助)は、1887(明治20)年に埼玉県川越郭町に生まれた。士族の筋で、父は日本鉄道�蟠侈魁�
1892年、4歳の時に、父病死。
翌年、母は小村家より離籍。雪岱は父の実弟に養育される。

母と早くに離別した事は、雪岱にとって重大な影響を与える。
雪岱はあちこちの親戚に点々と預けられる事になる。
15歳で移り住んだ日本橋檜物町は、彼の著書のタイトルともなり、彼の原風景を築いた場所となる。
翌年、16歳で画家を志し本格的な修業を始める。
1904(明治37)年、17歳で東京美術学校日本画選科に入学、07年から下村観山の下で学ぶ。
20歳時に泉鏡花の知遇を得、以後親密な付き合いが続く。雪岱の号も鏡花から貰う。
後ライバルと見なされるようになる鏑木清方(1878-1972)も鏡花との縁が深い。

小村雪岱は、一般的には知名度が低い。鏑木清方と比べると、雲泥の差がある。
何故か。
まず「雪岱(せったい)」という字が普通の人には読めない。これは案外大きい。名前が読めない人に親しみは沸かない。
それから、一度に時代が下るが、彼の没年の問題がある、即ち1940(昭和15)年。脳溢血による急死だった。
横山大観(1868-1958)と竹内栖鳳(1864-1942)の一般的知名度の差も相当大きい。回顧展が行われたり、最近でこそ栖鳳の名は上がってきたが、それ以前は、長生きした大観と比べものにならなかった。
1940年近辺で亡くなった芸術家の死は、日中戦争(1937〜)から太平洋戦争(1941-45)の戦時体制下にあり、殆ど報道されなかった。
53歳と短命だった事も勿論あるが、芸術家にとって死がどのように扱われるかは極めて大きい。また、子供がなく、彼の画業を伝える者や、作品,資料を収集したり整理したりする者にも恵まれなかった。

素晴らしい作品を残しているのに、それが知られない芸術家達、その中に雪岱もおり、山下はこうした人を世に知らしめる事をしたいとかねがね思ってきた。
1918(大正7)年、31歳の雪岱は資生堂意匠部(後の宣伝部)に入る。1923年には、京都帝室博物館で、松岡映丘(1881-1938)の指揮の下、《北野天神縁起絵巻》の模写の仕事を始める。
松岡映丘は、平安時代のやまと絵の血を隔世で引く稀有な画家だが、彼も殆ど知られていない。
山下が応援したい芸術家には、雪岱に加え映丘もいる。
講演タイトルの意味が見えてきた。

遡るが、古画に親しむ仕事は、1910年、23歳の時から始まっている。同年、彼は国華社に入社、美術雑誌「国華」(*)の関係で古画の模写を始めている。
雪岱の線や画風には、古画の影響が強い。

 (*)「国華」は今も刊行されている。山下が最初に論文を掲載したのもこれだった由。

また装幀の仕事は、泉鏡花との縁で、1914に始まっている。『日本橋』の装幀が評価を得た。その延長で、挿絵の仕事も生まれる。
挿絵で「雪岱調」と呼ばれるスタイルが確立し、評価が不動のものになるのは、1933(昭和8)年、48歳時、東京朝日新聞に連載された『おせん』(邦枝完二著)による。
この原画はかなりの量を資生堂アートハウスは持っていて、今回も連作から4点が展示されている。
彼の装幀による本も、今回第2会場で46点、その品の良い外と中を360°から観る事ができる。

そして、雪岱の仕事で忘れてならないのは舞台関連である。
1924年、これも松岡映丘の世話で、菊池寛作『忠直卿行状記』の舞台装置を初めて手掛ける。30歳代後半から40歳代前半は、舞台装置の仕事を集中的にやっている。
今回の展覧会には、舞台背景の下絵等も数点並べられている。


配布資料、雪岱著『日本橋檜物町』「挿絵のモデル〜個性なき女性を描いて」を読む。
雪岱の絵の女性は、個性がないとよく言われる。それを前提にして、本人はこの文章を描いている。
江戸時代中期の浮世絵師鈴木春信(1725?-1770)によく似ていると言われもする。正確に言うと、顔よりも、プロポーションや身のこなしがよく似ている。

少し引用する、「私の描く人物には個性がありません。個性のない人物、これが私の絵の特徴で、同時に私の最も非難される点です。しかし私としては個性を描出することには興味が持てないのです。風景を描く場合でも理詰めの遠近法は採りません。自然写生といふこともやりません。私が女を描く場合も決していはゆる写生をしたことがありません。写生と写実には興味が持てないのです」。
近代以降の日本画家でこんな人はいない。栖鳳も「写意」は大事だが、まず写生をする事が必須だと言っている。

雪岱が好きな顔は、仏像、御所人形、能面だと言う。生きている女性の顔に、描きたいという気持ちにさせられる事は殆どないらしい。
ただ母の顔は別で、こう言っている、「私が好んで描きたいと思ふ女は、その女が私の内部にあるもの、何といひますか一口にいへば私の心像です。この心像に似通ったものを持つてゐる女です。(中略)
たとへていへば私は幼いころ見たある時ある場所の母の顔が瞼の裏に残って忘れられません。口ではいひ現せない憧れに似た懐しさを感じてこれが私の好きな女の顔の一つなのです」。

能面についてはこう言っている、「では個性のない人物を描いてどこに興味を置いてゐるのかといへば、私はあの能面の持つ力に似たものを希つてゐるのです。能面は一つの表情です。しかし演技者の演技如何によっては、それがある場合は泣いてゐるやうにも見え、またある場合には笑ってゐるやうにも見えます。つまり私は個性のない表情のなかにかすかな情感を現したいのです。それも人間が笑ったり泣いたりするのではなく、仏様や人形が泣いたり、笑つたりするかすかな趣きを浮かび出させたいのです」。

山下は面白い事を言った、・・・マザコンは芸術に向いている。マザコンというのは、芸術活動に大変重要な要素の1つになる。私は、「マザコン美術史」という本を描きたいと思っているくらいだ。岩佐又兵衛しかり、明恵上人しかり、岡本太郎しかり、サルバトール・ダリもそう、例はたくさん挙げられる、と。
さぞかし、面白い本ができるに違いない。
私もそうですが、等と最後に付け加えてもいた(笑)。


いくつか作品を観てみよう。

【写真1】《おせん》(1933) 挿絵原画/紙に墨
鈴木春信の身体の線を想わせる。雪岱を「昭和の春信」と呼ぶ人も多かった。
フォト


【写真2】当展チラシ〜《青柳》(1941) 木版画
非遠近法。俯瞰で見る人家の居間。
三味線と2丁の鼓があるのみだが、先程迄そこに人のいた気配。
柳の木の大胆なトリミングは、琳派の影響を見る。
フォト

右上の「小村雪岱展」の文字の品の良さ。殊に「雪」の字、雨かんむりの中の点々を見よ!
雪岱は資生堂意匠部時代に、現行の資生堂書体に近い宋朝風書体を考案した。

【写真3】《大経師昔暦 おさん茂兵衛》(1941) 木版画
木版とは思えない。着物の繊細な縞模様も全く潰れていない。
フォト


【写真4】《湯島夜景》(1941頃) 木版画
これも木版とは思えない、微妙なグラデーション。
普通だったら、全部真っ黒になってしまうところだ。
フォト


展示作品、全44点、書籍46点を加えて、総数90点。
 
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2014年11月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30