11/6(木)、文芸大の帰りに浜松市博物館に寄った。美術館の事は幾度も書いているが、博物館関連については殆ど書いていない(気がする)。めったに行かないので、それも尤もではある。
開催されているのは「浜松にもたらされた黄檗文化」なる展覧会。「初山宝林寺開創350年記念」とある。
・会期 11/1〜30
黄檗宗(おうばくしゅう)というのはあまり馴染みがないが、禅宗の一派だとの事。インゲン豆を日本にもたらした中国(明末〜清初)の僧 隠元(1592-1673)が、日本の黄檗宗の開祖である。
日本の総本山は宇治の萬福寺で、18世紀半ばの資料では1,000を越える末寺の存在が記されているとの事。
初山(しょさん)宝林寺は我が家の近くにある寺で、2007年に寺宝展等を観に行った事がある。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=614378580&owner_id=3341406
隠元は江戸時代の初期1654年に来日した時、20人の僧を中国から連れてきた。その中に独湛(1628-1706)もいた。
独湛は、1664年、遠州金指(かなさし)の旗本 近藤登之助貞用(のぼりのすけさだもち)に招かれ、同地に初山宝林寺を開いた。
今は仏殿を中心に3つの小さな堂と方丈,庫裏がある程度だが、創建時は、寺領100石、七堂伽藍を中心に、5万坪を超える敷地、20棟を越える堂があった由。これらは、近藤登之助貞用の寄進によるものだから、彼の信心の深さが窺えるというもの。
隠元の黄檗禅は、明時代の動向「禅浄双修」「禅密双修」等を特徴とし、禅と浄土、禅と密教を織り交ぜる「混淆禅」という言い方もあるらしい。
当時乱れていた日本の禅宗各派に規律を与え、その改革に、後水尾法皇を筆頭に多くの公家,武士の要人が帰依、更に民間にも広まった。
隠元の禅を一層判り易く唱えたのが独湛で、「念仏禅」と称されるように、「南無阿弥陀仏」を唱えれば悟りが得られると教えた。
独湛は宝林寺の初代住持となり、以降18年間同職を務めた。
その結果、多くの民衆の帰依を得、他にも多数の寺が遠州にできる事となった。
この展覧会では、宝林寺の開創350年を記念し、同寺や、同じ浜松の妙見山大雄寺(だいおうじ)、そして京都 黄檗山萬福寺他からも仏像や仏画を集めて展示している。全47点。
◆萬福寺から
韋駄天立像(1662/寛文2) 木造彩色漆箔 →【写真1/中日新聞11.2記事参,写真2/チラシにも部分】
・・・韋駄天は仏舎利を盗んだ悪鬼を追い駆けて取り押さえたという故事がある。俊足の神として有名。金地に華やかな文様が美しい。明代の武官風衣装をまとっている。
弥勒菩薩坐像(明代17c.) 黄釉陶製
・・・これは布袋像と言った方がいい。布袋は弥勒菩薩の化身。
◆宝林寺から
独湛性螢像(1682/天和2) 紙本着色 →【写真2/チラシに部分】
・・・喜多元規筆,独湛本人の賛。いわゆる「頂相(ちんそう)」という肖像画の類。顔のあばた迄描き込んである。
近藤貞用夫妻像(1696/元禄9頃) 絹本着色 →上のリンクに私が携帯で撮った画像あり。共に僧の姿をしている。
・・・喜多元規筆,独湛自賛。
同寺には、桟が中国風卍模様の円窓等あり。
◆大雄寺から
阿弥陀如来像(1697/元禄10) 紙本墨画淡彩 →【写真2/チラシに部分】
・・・独湛本人が描いたもの。頭頂の形は中国スタイル。請われて気楽に描いたようで、如何にも力が抜けている。
地蔵面然大師像(1688/貞享5) 同上 →【写真3】
・・・独湛筆。浄土教的題材を描いている。
同寺は朱塗りの漢門が如何にも中国風。萬福寺様式を伝えている。
<付記>
9/6の岐阜旅行時に寄った、岐阜大仏のある金鳳山正法寺も黄檗宗の寺で、宇治萬福寺の末寺だった事を想い出した。
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