4/10(水)、愛知県美術館で開催されている円山応挙展を観に行く。
閉幕が4/14(日)、発熱の影響でスケジュールが狂ったが、何とか間に合ったというところだ。
・会期3/1〜4/14
円山応挙(1733-95)は、江戸時代中期の画家で、写実という事に自分の絵画の進む道を求めた。日本、そしてこの時代にあって、極めて革新的な人物だった。
この展覧会の企画者の1人で、昨今の秀逸な展覧会の監修者として引っ張り凧である山下裕二(明治学院大学教授)は、図録の冒頭で、「新の実力者・円山応挙〜日本絵画史上、最大の結節点としての」という論文を展開している。
これ迄、応挙については、評価する人とけなす人がいた。
それはどういう訳だろうか。この事については、私自身以前から大きな興味を持っていた。
この展覧会は、それに一定の答えを与えてくれる。
まず展覧会の構造である。
第一章「リアルに見えること」の追求
・・・全27点、内応挙25点。『大石良雄図』では、まず裸体デッサンを施し、その上に着物を着せて人体表現にリアリティを獲得している。
第二章 伝統としての写実
・・・全18点、応挙13点。含む重要文化財1点(『雨竹風竹図屏風』)。
第三章 現実空間との連続性=トリックアート
・・・全6点応挙。国宝1点(『雪松図屏風』)、重要文化財3点(大乗寺応挙の間再現、『郭子儀図襖』他)。自然光や屏風の凹凸の活用。
第四章 技法への確信
・・・全20点応挙。重要文化財1点(『藤花図屏風』)。後半生、応挙の写実の多様化。
終章 応挙はなぜ好かれ/嫌われたのか?
・・・全10点。同時代の応挙を巡る画家と明治期の画家の作品を通じ、応挙の本質を見直す。
全章総展示81点、内応挙64点(但し前後期で展示替えあり)。六曲一双等の屏風も1点でカウントしている。
日本には古来「粉本主義」という伝統があって、画家たるべくある派の門に入ると、先達の名品を真似するという事をひたすらやらされる。
西洋のように、静物や自然のスケッチ,写生で基本を磨く等という事はしない。
(参)文芸大<芸術特論D>第10回講義録
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1883383486&owner_id=3341406
明治になっても、菱田春草や横山大観が、自然界には輪郭線等ないとして、レオナルド・ダ・ヴィンチで言えば「スフマート」のようなトライを一時すると、粉本主義で育ってきた日本画家達や評論家達は「朦朧体」と揶揄した。
竹内栖鳳のような写生を重視した革新的な日本画家(日本画壇において、応挙の”時代を経た後継者”と言える筈の)でさえ、西洋画の写実は鏡に物が写っているのと同じで想像力を必要としない、つまり、より重要な芸術の精神がない、等と極端な事を言ったりする。
(参)同第12回
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1885468503&owner_id=3341406
今展の終章が、まさにこうした日本画の伝統と革新の衝突を端的に示している。
この展覧会の実質的な企画者は馬渕美帆(神戸市外国語大学準教授,元愛知県美術館学芸員)だと想像されるが、彼女が今展のチャプター構成をした当人だろう。
図録では、山下裕二の次に、「応挙画を考える〜その日本絵画史における”新しさ”とは?」なるレポートによって、この問題を真正面から捉えている。
応挙を悪く言っている同時代人には、著名なところでは上田秋成(1734-1809),曾我蕭白(1730-81)、その他多数がいる。
彼等の言う”絵画のあるべき姿”は要約すれば3つ、馬渕の文章からコピーすると以下のようになる。
ⓐ写生は、(応挙のそれのように)対象の姿形を似せるのではなく、対象がもつ生気ともいうべきものを表現すること。
ⓑ具体的な作画においては、力強い筆法を用い、筆勢を明確に出すこと。
ⓒその筆法は、中国南宋時代の牧谿画のような古画の伝統を踏まえたものであること。
これらの伝統的な概念が、「応挙の登場で大きく揺さぶられ」たのである。
ⓐ〜ⓒ個別に論じていくスペースはここにはないが、馬淵は、蕭白等の個別作品との比較を細かく丁寧に積み上げて論じている.。
応挙以前の絵画は、「特に中国の故事や文学・絵画等の伝統文化、中国古典に対する知識がなくては十分に理解できないものであり、鑑賞者にそうした知識や解釈を求めるもの」だった。「玄人好み」、「鑑賞者を選ぶ絵画」であった。
対して、彼の画で「最も優先されるのは物語や歴史の表現ではなく、(中略)現実的な描写そのものであ」り、「伝統的な絵画を構成する様々な絵画的・言説的な厚みに対する”視覚”の優位性であると言え、それが応挙画の決定的な新しさであった」。
「前提となると知識や解釈の必要がない」「いわば予備知識がなくても愉しめる絵画であ」った。
逆に言えば、「玄人」や専門家達には物足りなく思えた事だろう。
こうした事の時代背景に、1つには享保の改革による、洋書の解禁(1720〜)がある。
(参)同第9回
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1882445023&owner_id=3341406(*『牡丹孔雀図』の図像を含む。但し、今展の同名展示品は、よく似るもののこれとは別物。孔雀図は人気を博したと見えて、多数描かれた。)
洋書によって医学,解剖学や動植物学,自然科学,博物学等が流入した。
遠近法もそれらの一環だし、民間ではその影響で「眼鏡絵」等が流行するようになる。
また、町民階級の台頭ももう1つの背景というべきだろう。これら新しい文化を受け入れる層がぐんと拡大した時期でなのである。
「応挙の登場で、それまで選ばれた一部の人のものだった絵画が、より広い裾野にまで親しく鑑賞される状況となったのである」。
「実際応挙の絵は、皇室から市民レベルまで幅広い人気を博した」。
門弟が1,000人にも膨れ上がったとも聞く。
こうした状況を見て、旧い時代の画家や文化人達は焦った事だろうし、嫉妬もしたろう。
応挙の新しさを否定したくなるのも尤もだ。
このような動きは、西欧でもあった。
応挙が活躍した時代は、ヨーロッパで言えばフランス革命(1789〜)に向かう時代である。
また、市民層の台頭によって、歴史画神話画を専らとしたアカデミズムが否定され、視覚こそを重視する芸術家が現れてくるのは、19世紀西欧美術の大きな潮流である。
それに先んじた応挙は、残念ながら本質的な後継者を育てる事ができなかった。
「対象の現実的な表現を墨守する応挙画の基本そのものは、必ずしも弟子筋に受け継がれず、その画風はやや変質した形で伝えられていった。応挙画の本質は伝わらず、より表面的な部分をなぞる形で受け継がれたといってもよい」。
市民階級の熟成は江戸時代では果たせず、明治を待つ事になるのだ。
写真1 『雨竹風竹図屏風』六曲一双(1776)
・・・墨と淡彩で雨や風の空気感迄もリアルに表現。奥行き感も素晴らしい。応挙の写実はこういう表現も含んでいる。
写真2 『藤花図屏風』六曲一双(1776)
・・・幹は付立による簡単な濃淡の筆致のみで表し、花房は精緻を極めた写実。2次元と3次元の表現が1画面中に併存する。
・図録
『開館20周年記念 円山応挙展〜江戸時代絵画 真の実力者』
執筆 山下裕二,馬渕美帆他
発行 円山応挙展実行委員会(愛知県美術館,中日新聞社)2013年3月
・参考図書
『もっと知りたい 円山応挙〜生涯と作品』
執筆 樋口一貴
発行 東京美術2013年3月初版第1刷
常設展
「2012年度第5期コレクション展」
・・・昨年末12/14に亡くなった写真家 東松照明の追悼展示を含む。
愛知県美術館の後、近隣 主税町にある堀美術館を訪ねる。
当館は、ダイテック創業者堀誠のコレクションを一般公開する為に、2006年オープンし小さな美術館。
展示作品には、梅原龍三郎の有名な『裸婦扇』『南仏カンヌ風景』、安井曾太郎『薔薇』、長谷川利行、三岸節子『さいたさいた桜がさいた』他3点、佐伯祐三、杉山寧3点、藤田嗣治3点、等々、全33点。
ご存知ない方が多いだろうから、HPより現展示品のみどころをかいつまんだサイトを下に紹介しておく。
http://horimuseum.jp/collection/highlight.html
興味がある方は、堀美術館下の各サイトを眺めてみるのも一興かと。
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