桜木紫乃の書いた長編小説『ラブレス』を読む。
2011年下半期の直木賞候補6作品にこれが入っていた。
私は、桜木作品を読むのは初めてである。
このタイトルは、今時のチャラチャラした斜に構えた風があり、殆ど何も発していないに等しい。
読後、「ラブレス」の意味は判らない事はないが、描かれた世界とはあまりに遠い語感で、もっと他のタイトルもあったろうにと思う。
しかし、物語には、圧倒的な力がある。有無を言わさずに引き摺り込む力がある。
描かれている世界は、昭和初期の北海道、開拓村に夢を持ってやってきながら、赤貧から這い上がれない家族。
酒に溺れ暴力を働く父親、口減らしに町の薬屋に奉公に出された長女 百合江は、店主に父親の借金代わりと、まだ大人になり切れない体に圧し掛かられる。
ある日、ドサ回りの旅の一座に憧れ、彼女は、フラフラとついていってしまう。
歌っている時は幸せを感じ、その今の瞬間だけを生きる事に、身体は馴染んでいく。
座主の病死、一座は解散、流しの歌手にでもなるしかないと、裏町から裏町へ。
騙され、裏切られ、奪われ、身籠り、出産、そして、また騙されから繰り返すかの如き一生は、別れに継ぐ別れ、離散に継ぐ離散に塗り込められている。
ド演歌の世界もこれ程ではない。
繰り返しになるが、英語風のタイトルと描かれた世界はあまりに懸け離れている。
しかし、百合江は自らを不幸とは思わず、目の前に起こる出来事を風にそよぐ葦のように受け入れていく。
桜木紫乃のペンは、百合江の半生を、本人だけでなく、場所と長い時を隔て、ある時は妹の、ある時は娘の視点から、軸をするりと替えて描き継いでいく。
そうした手口によって、自分の気持ちを直接には語らぬ百合江の姿を炙り出しにしていく。
冒頭から、寝たきりで口も利けない姿で登場する母親の来し方を、もう一度反芻しつつ、娘が幾度も漏らす詠嘆は、現代という尺度で測れない、その理解不能性に因っている。
百合江を取り巻く、妹、娘、従妹等は、しかし、ただの語り手ではない。
百合江の理解不能性を問う事は、己の人間としての生を洗いざらい吐き出させる事に繋がっている。それぞれがそれぞれを写す鏡になって、互いを見る中に、自分の姿を見ている。
彼女達のくっきりとした輪郭のある姿に対して、しかし、男達は、如何にも立体として描けていない。そこは残念なところだ。
開拓村で一旗揚げようと、炭坑から出てきた百合江の父と母、日々酒に溺れ暴力をふるう父と耐えて黙りこくる母との間にも、愛のあった時代があったらしい。
しかし、その父親は、ただの暴力の化け物としてしか描けておらず、駆け落ち迄して津軽海峡を渡ったその愛と暴力とを繋ぐよすがが見えてこない。
その息子、つまり百合江の弟にもその化け物的性格は伝播しているが、彼も、単なる類型の域を出ていない。
桜木の書いた女は見事に人間として立っているのだが、男はどうも人間になり切っていない感がある。
そうした欠陥はありながら、百合江の物語は、圧倒的な力を持って、読者に迫る。
桜木は、いわば凍てつく地の"語り部の言霊"如きものを、時代を越え、どうやって手に入れたのだろうか。確かに彼女は北海道釧路生まれ(1965年)ではあるのだが。
その点に、興味は沸々と沸く。
今はまだどれとは判らないが、別の作品も読んでみたいと思う。
書きおろしにより、新潮社、2011年8月発行。
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