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2009年07月21日00:10

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ビゼー 歌劇『カルメン』

7/17(金)18:30〜、東京文化会館にて、ジョルジュ・ビゼー(1838-75/仏)の歌劇『カルメン』。
佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2009と銘打たれ、今年は全国15ヶ所での公演となった。兵庫県立芸術文化センターにて9公演、東京文化会館にて4公演、愛知県芸術劇場で2公演である。
佐渡が兵庫県立芸術文化センターの芸術監督をやっているので、そこから、公演が拡大していったもの。
これ迄、『蝶々夫人』『魔笛』『メリー・ウィドウ』とやってきて、公演回数も次第に伸ばしてきた。

そんな訳もあって、オーケストラは、兵庫と愛知が兵庫芸術文化センター管弦楽団、東京が東京フィルハーモニー交響楽団となっている。
キャストもダブルで組まれており、各地、日により以下2様である。

    カルメン(ms)    ドン・ホセ(t)    エスカミーリョ(br)      ミカエラ(s)
A ステラ・グリゴリアン ルカ・ロンバルド ジャン=フランソワ・ラポワント 木下美穂子
B 林美智子        佐野成宏     成田博之             安藤赴美子

私は、目的が、カルメンでも佐渡でもなく、木下美穂子を聴きたい、と明快なので、迷う事はない。日により、または買えるかどうかにより、AでもBでも可という訳ではない。
普通ならば、近い名古屋公演に行くのだが、これは買えなかった。発売日にネットから入ったのだが、もういい席はなかった。
で、東京公演を求めたのだが、これも既に良い席はなし。
ダメか!と落胆していたが、後日、念の為ともう一度チェックしてみたら、明らかにキャンセルによって出た席が、ぽつんと1つ前の方にあって、急いて購入した次第。
それが、第2列の7番である。左寄りだが、歌手の表情迄見えるという意味では、申し分ない。

演出はジャン=ルイ・マルティノーティ、指揮は、芸術監督自身。
原作 プロスペル・メリメ(1803-70/仏)
台本 アンリ・メイヤック,リュドヴィク・アレヴィ
初演 1875年
全4幕フランス語

典拠楽譜は、初演後すぐに死んだビゼーの友人ギローによる、レチタティーヴォ版(グランド・オペラ版)でなく、オリジナルのオペラ・コミック版を主とした。
メリメの原作を活かしセリフを多用した原版に対して、グローバル展開では仏語のしゃべりは難しいとの配慮から生まれたのがギロー版で、セリフを大きくカットし、レチタティーヴォで必要最小限の繋ぎを行っている。このお陰で、『カルメン』は全世界へ一気に拡がるヒットとなったのだが、功も罪もあった。
セリフのカットにより、メリメの生々しいリアリティは飛んでしまい、ムーディなものとなってしまったきらいは否定できない。

原版を選択したというところに、マルティノーティと佐渡の、このオペラに対する姿勢が見て取れる。リアリティ重視、生々しさ重視である。
しかし、これによって、上演時間は長くなった。
長くなった事によって我が身に起きた”事件”は、7/18の日記に書いた通り。勿論、これはギローの功罪と関係はない。(笑)

演出の側面では、2つ特に面白いところがあった。

まず、派手な前奏曲が終わりかけ、例の暗く重い”宿命のテーマ”が流れると、幕がすっと上がる。
暗い舞台には、椅子と男達。
複数の兵隊が1人の男を追い立て、椅子に座らせ縛り付ける。そして、椅子の後ろの兵隊が、座った男の首を縄で絞める。スペイン式の絞首刑らしい。
この間、僅か何秒。そして、バサッと暗転し、次に明るくなると、一般的な『カルメン』の最初の場、タバコ工場前の広場である。
短い時間の中でフラッシュのように起きた事は、最初理解できない。誰が殺されたのかも、暗い中であるし、また、当日のキャストの顔も殆ど知らないという情けない有り様なので。
しかし、4幕最後迄通して観、ふと冒頭の場を思い出すと、あれは、ラストの続きだったのが判る。
つまり、ラストは、闘牛場の前の場、ドン・ホセが復縁を迫り、カルメンにあからさまに断られて逆上し、ナイフで射してカルメンを殺してしまうというものだ。
ドン・ホセは泣きながら叫ぶ、殺したのは俺だ、俺を捕まえてくれ!と。
冒頭はその続き、ホセは縄にかかり、裁判があったかどうかは判らない、何日後かも判らない、が、ともかく、結果として、望む通り死刑となった、という訳である。
映画でもよくある手法だが、最初と最後が、ループとなり、回り廻ってくっつくのである。観客は、最初何の事か判らぬままストーリー展開を追い駆けるしかないが、最後になって腑に落ちる、という仕掛けだ。

もう1つは4幕の頭にある。
ここでは、闘牛の開幕を待つたくさんの人々が舞台を埋めている。
闘牛士達が現れる前、その中に、ドン・ホセとミカエラの姿がある。ふたりにセリフはない。
よくよく見ると、ミカエラのお腹は大きいようだ。ホセは、優しくミカエラに寄り添い、ミカエラは笑顔で応ずる。そして、ミカエラは、あとでね、とでも言うような表情で下手に消えていく。ホセは人混みの中に紛れる。

これはマルティノーティの全くの創作だろう(メリメ原作は読んだ事がないので、実際は判らないのだが)。
しかし、この創作の気持ちは大変よく判る。
これ迄に何回か『カルメン』は観てきているが、思った事がある、即ち、3幕、・・・ミカエラがホセを追って、深く怖ろしい山中にやってくる。ここは密輸団の一過的なアジト。ホセもカルメンも、今この一味の中にいる。カルメンの心は既にホセから離れている。ホセは一層執着する。動の女と静の男の典型的な末路。ミカエラの素晴らしいアリアがある、ホセ帰ってきて、お母様が重病なの、死ぬ前にあなたを許したいと言っているの。絶対カルメンから離れないと言い張っていたホセは、そのひと言で心が折れ、山を下りる事となる。ホセのマザーコンプレックスが顕わになる。それでも、カルメンまた戻るぞ、と言い張りながら、ホセはミカエラと上手に去る・・・これ程の大事が起こるにも関わらず、従来のものでは、この後のホセとミカエラと母親の顛末は一切判らない。それは放ったまま、4幕、ホセとカルメンの殺傷事件に突き進むのである。
ラストの宿命的な事件の前で、世話事的な結末は却って邪魔、効果が薄れてしまう、というような配慮が作者または演出の側にあるのかもしれない。
が、私は、オペラが終わるといつも思い出すのである、母親はどうしたろう、ミカエラは、と。

今回の演出では、その素朴な疑問にマルティノーティが答えている。
母親については説明はないが、大病の果てに、やはり死んだのだろう。そして、恐らく、ホセは枕元で母の許しを請い、遺言に従って、ミカエラと結婚したのだろう。そして、子供も授かる。しかし、カルメンの事は、何かしらのきっかけの度毎に想い出し、溜め息をつく。リーリャス・パスティアの酒場での踊り、蠱惑的な眼差し、そして、心変わりした後の彼女の侮蔑の表情、それらが幾重にも自分の脳裏を襲う。ついにホセは、ミカエラを騙し、カルメンとの再会を企てる。
と、これらが、4幕最初の新演出の背景である。

やはり想像していた通りだったか、私はそう納得する、そして一層思う、下手に消えていった身重のミカエラの、無言の笑顔の悲しさ。
木下美穂子は本来3幕以降は出番はないのだが、彼女の歌わない演技に、つい涙が出る。
これは、栗山昌良演出の、自決を決心した蝶々夫人とスズキの、目を合わせただけの無言の演技とも、情感として通底するように思う。
歌手と言えども、ただ歌とそれによって直接表出されるものだけでは済まないのだ、歌わない演技の迫真性も求められるのが、新しいオペラの1つの潮流だ。

勿論、3幕のあのアリアの切実さも素晴らしく心に響いた。
あのミカエラの姿と訴えは、一種の聖母信仰とイメージが繋がっているように思う。
その連続性の中で、次の4幕が開くと、闘牛場の前の控室で、エスカミーリョとカルメンが祈るのは、小さな聖母マリア像である。
スペインのカトリック伝統の文脈において『カルメン』を読めば、償いを求めぬ無辜の象徴として、ミカエラと母と故郷とは、ひとつ、マリア信仰の世界に収斂していくものであろう。
それを、木下は、その透明でいて情感の溢れる声と演技で、素晴らしく表現していた。

今回の観劇の目的からして、木下美穂子を中心にした感想となった事、やむなしと一笑に付してご寛容願いたい。


<追記>
写真は、共通ポスターのイメージ。
3幕のカルタの3重唱。カルメンが、カードを切っても切っても、それが占うのは、死、死、死・・・
 
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