mixiユーザー(id:3341406)

2026年05月12日11:00

177 view

NHK「世界 我が心の旅」米原万里『プラハ 4つの国の同級生』~2/end

(続き)

ギリシア出身のリッツァ・パパドプロ、万里は彼女が大の勉強嫌いだったと記憶していた、特に数学がダメだった。
彼女は、例の寄せ書きに住所を書かなかった。
第二次世界大戦後ギリシアは政情不安に陥り、多くの人々がプラハにやってきた。リッツァの両親もギリシアからチェコに亡命してきたのだった。

プラハに戻った万里は、市内のギリシア人コミュニティィを訪れた。
コミュニティでリッツァの情報を持つ人がいて、彼女はカレル大学の医学部にいたと教えてくれた。
カレル大学はチェコ一番の大学で、あの頃のリッツァを知る万里には驚きだった。
カレル大学の学生名簿を調べると確かに彼女の名があった。成績には問題があったようだが、再試により(?)何とか卒業はできたらしい。

プラハ郊外にギリシア人達がよく集まってパーティをする居酒屋があると聞き、万里は出かけていった。店の主人はギリシア人コミュニティの顔役だった。
彼に訊くと、驚く事にリッツァは私の姉の娘だと言う。確かに、彼はリッツァの母親の顔によく似ている。
リッツァは今西ドイツにいるとの事で、電話番号を教えてもらった。
リッツァの父は、ソ連のプラハ侵攻に反対し、出版社を解雇された由。東でなく西ドイツに移ったのは、そうした経緯があったからか。

リッツァはフランクフルトの近く、リュッセスハイムにいた。
アパートのエレベーターから出るとそこに小太りのリッツァが出迎えてくれていた。二人は抱き合って再会を喜んだ。
医者になったのは、両親の勧めだった、と。父は民主主義者で、図らずも政治的な問題を抱えてしまった。医者になればどこに行っても困る事はない、というのが父の考えだった。父はあちこち逃げ回り、家族は困窮、最後はユーゴスラビアで死んだ。自分のような苦労を娘にさせたくなかったというのはよく分かる。
それにしても、勉強嫌いだったリッツァがよく医者になれたと万里は笑って言う。それをそばで聞いている、やはりギリシア人の夫も笑う。

リッツァは現在この地でクリニックを開業している。患者の大半はギリシア出身者。
ギリシアは空と海はきれいだが、もう帰らない。私はヨーロッパで育てられたのだ、そうはっきりとリッツァは言った。


アーニャと待ち合わせをしたのはプラハのバーツラフ広場。ここはソ連侵攻で知られた場所で、激動のチェコの現代史の舞台だ。
遠くからやってくるアーニャを万里はすぐ分かった。
抱き合う2人、アーニャは「カメラなしであとでゆっくり話そう」と。
万里は言う「アーニャは嘘つきで、夢見がち、空想にふけってばかりいた」。
否定するアーニャ、「私はリアリストよ」。笑い会う2人。

アーニャにはイギリス人で大手旅行雑誌の編集社に勤める夫と2人の娘がいる。
もうロンドンに20年、ロシア語は忘れかけている、と。

例のロシア語学校があった場所に2人で行ってみた。校舎はそのまま残っていたが、看板には「高等看護学校」とあった。
入っていくと、黒板、ベル、体育館など昔のままのようで驚いた。
この体育館では、よく創作体操をやった記憶がある。アルバムに写真も残っていて、その統制がとれた美しさは、集団主義の訓練であったかもしれない。
アーニャは言った、「12歳の私達にはいい学校だった、大好きだった、全て正しいと信じた。卒業して初めて、違う世界があると気づいた。物事は黒と白でなく、灰色だと知った。」

美しい夕焼けのカレル橋を歩きながらアーニャは更に言う、「母国ルーマニアは10%程度の存在としか感じない、私は英国人になった。」
2人は万里がロシア語、アーニャが英語、それでも分りあえる。
万里は受けて言う、「言葉というのは、人間というのは非常に面白いもので、絶対に抽象的な人間などというのはいない。かならずどこかの国に生まれ、どこかの言葉で世界を認知したり、人々とコミュニケーションしていく。抽象的な言葉なんてない。それぞれみんな違うところでそうやって育つのに、違う言葉でしゃべりながらお互い分かり合えるというのは、人間というのはやはり類的存在なんだ、同じ種なんだっていう感じがする。」

31年ぶりに3人と出会えたのは奇跡のようでもあった。同級生、皆、否応なく背負った国やイデオロギー、民族から自由になろうとして、人生を切り拓いてきた。大変な道程だった。
4人は今もかけがえのない友人、万里は万感の思いだった。

・・・・・・

1996年放送の「世界 わが心の旅」『プラハ 4つの国の同級生』の制作スタッフは、テロップでも流されないまま終わってしまったため、ここに記す事はできない。

この番組は、「世界 わが心の旅」シリーズとしてでなく『プラハ 4つの国の同級生』単発で放送文化基金賞を受賞した。


今回の「時をかけるテレビ」はいつものように池上彰をナビゲーターとし、井上ユリをゲストに迎えた。
井上ユリは、米原万里の妹で、故井上ひさしの妻。プラハのロシア語学校には井上ユリも万里と一緒に通った。万里の3人の親友は、彼女もよく知っていた。

1996年の番組放送から5年後、更に取材を重ね、新たに分かった事実をまとめて、米原万里は『嘘つきアーニャの真っ赤に真実』(2001)を出版した。大宅壮一ノンフィクション賞を獲得、米原の代表作の1つとなった。
同書は「リッツァの夢見た青空」そして「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「白い都のヤスミンカ」の3題で構成されている。

そして、その4年後の2006年、米原万里は卵巣がんの転移により56歳の若さで亡くなってしまった。

私も同書を2008年に読んで感動し、米原万里の人柄と行動力に驚き、魅力を感じた。
以下レポート参。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=845085315&owner_id=3341406&from=list_diary_search

2008年には、他に『米原万里の「愛の法則」』(2007),『心臓に毛が生えている理由』(2008)を一気に読んでいて、ここにリンクは貼らないが、日記にレポートも書いている。

ゲスト出演した井上ユリは、何故この本を出したのだろうかと池上彰に問われ、こう答えた、
;4人、本当に激動の人生だった。バラバラになってしまった同級生が、万里の行動力で奇跡的に出会えた。それだけでも素晴らしいが、ただ出会えたというので終わるのでなく、4人が生きた時代がどんなだったかというのを万里は書きたかったのだと思う。
それも、プラハの春がありました、ソ連の弾圧がありました、ユーゴに内戦が起こりました、というのじゃなくて、その歴史の中で生きている人間がいた、その一人一人の生活、苦しみや喜びを通して何か伝えられるのではないか、そう思ったのではないか。

井上;それにしても何なんだろう、この民族というのは。人間は何故、帰属にこんなに刺激されてしまうのか。それ迄ユーゴスラビアという1つの国に帰属して、仲良くしていたのが、そのタガがなくなり、内部対立が発生すると、ムスリムだ、ゼルビアだってなってしまう。人間というのはどうしたらいいのか。
これを修復しようとするとまた何世代もかかる事になる。

池上;ロシアとウクライナ、これも元は、同じソ連人だと言っていた。仲間内でも、ロシア人だと思っていたらウクライナ人だったって事が起き、悲しい出来事が起きた。

井上;私達がプラハで学んでいた学校はソ連の子が一番多かったが、よく調べてみると、父親がウクライナで母親がロシアとかいう子はたくさんいた。それに純粋なロシア人、純粋なウクライナ人なんてどれ程いるか? 遡れば随分混ざり合っている筈だ。ウクライナ侵攻で、父親の国と母親の国とに引き裂かれてしまった人達がどんなにたくさんいるか。あの頃の友達を想い起すと悲しい。

池上;子供達はインターナショナルな場所で仲良くしていた、それが様々な紛争によって引き裂かれてしまう。だけど、31年ぶりに会えば、抱き合って喜ぶ事ができる。
民族とか言葉とかを越えて、子供達は仲良くできるじゃないか。

井上;〇〇人という事で性格が決まる訳じゃない。元々一人一人で違う。自分と違う文化、生活習慣がある人達と、それを超えて、実際に接したら、人間は理解し合えると思う。


冷戦が終了した1990年代、我々は世界に融和の時代がやってくると思ったが、そうはならなかった。
世界は再び分断し、武器に頼る時代になってしまった。
国境間で、民族間で、多くの人々が銃弾に倒れ、子供達は飢え、病気になって死んでいく。
大国の指導者らは自らの利益にのみ固執し、この惨状を見てどうとも思わない。
 
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2026年05月>
日 月 火 水 木 金 土
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31