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2025年12月22日23:43

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演劇『狩場の悲劇』チェーホフ/永井愛~1 (加筆)

12.20(土)、穂の国とよはし芸術劇場PLATで、二兎社公演『狩場の悲劇』を観る。
アントン・チェーホフ(1860-1904/ロシア)原作、永井愛脚色・演出。

フォト

本作は日本初の舞台公演で、11.7 紀伊国屋サザンシアターTAKASHIMAYAを皮切りに、来年1.17の所沢市民文化センターミューズ迄、全国17の会場で38回行われる。

チェーホフがこの小説を書いたのはまだ24歳の時。モスクワ大学医学部を卒業したばかりの医者で、ペンネームはアントーシャ・チェホンテだった。名前は殆ど世の中に知られていない。とは言っても、彼は学生時代から多くの軽い読み物を書いていた。経済的に困窮していた一家を支えるのが目的だった。

『狩場の悲劇』は例外的な長編で、「本日のニュース」紙に1884年8月から翌年4月迄連載された。チェーホフとしては珍しい推理小説である。
ロシアではフランスの探偵小説が翻訳されて人気を博し、ロシア作家も犯罪小説を書き始めていた頃。チェーホフは、新しい形式に挑戦した。

元予審判事セルゲイが、実際に遭遇した事件を書き留めたという手記を、某紙の編集長に持ち込むところから小説は始まる。
編集長は、小説の中でセルゲイが持ち込んだ手記を読み進めていくのだが、『狩場の悲劇』というのは、その「作中作」のタイトルである。こうした手法を「枠物語」形式と言う事もある。

語り手が真犯人(?)という「叙述トリック」を本格的に使ったのはアガサ・クリスティ(1890-1976)の『アクロイド殺し』(1926)だが、チェーホフの本作はそれより30年以上も早い。

原作には著者による「註」があちこちに添えられていて、予審判事が書いた手記に突っ込みを入れる形になっているところが面白い。「註」にはアントーシャ・チェホンテの頭文字が付けられている。

こうして、『狩場の悲劇』は単なる「作中作」の形式から、更に新しい「メタフィクション」と言うべきものに仕上がっているのである。

「枠物語」と「註」は小説でこそ可能だが、それをどう舞台化するか、それが永井愛の妙味となっている。

冒頭、ある夜更け、元予審判事セルゲイが編集長の部屋を訪ねる。
下は開演前に撮ったステージ。右手の壁に大きな書架、その前に編集長の机と椅子があるのが分かるだろうか?

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多忙な編集長が、セルゲイに乞われていやいや小説を読み始めると、「作中作」の登場人物の1人クジマ(アレクセイ伯爵の従僕)が突然舞台に現れ、伯爵があなた(セルゲイ)をお呼びですと言う。
編集長と話していたセルゲイはクジマの方を振り向き、アレクセイの用向きを訊く。
すると、舞台奥に照明で伯爵邸の庭のイメージが投影され、アレクセイがクジマを通さず、退屈だから久しぶりに話をしたい、とセルゲイに声をかける。
答えをぐずぐずしているセルゲイに、編集長は横から、「いやならさっさと断ればいいでしょう」と突っ込みを入れる。
これが原小説で「註」となっているところだ。イメージは沸いただろうか?

編集長の姿や声は、セルゲイには見え聞こえるが、アレクセイやクジマなど「作中作」の登場人物達には見えず聞こえない事となっている。
編集長は「作中作」の外に、アレクセイとクジマは「作中作」の内側にいるからだ。「作中作」を書いたセルゲイはというと、その両方に足をかけている訳だ。

セルゲイは、憎み且つ愛する同い年の悪友アレクセイ伯爵との快楽の時間を思い浮かべて断り切れず、結局「行く」とクジマに返事する。
アレクセイとクジマの姿は消え、セルゲイは編集長の椅子を奪い取り、それを馬として伯爵邸へと駆けていく。
編集長は、セルゲイに「椅子を壊すなよ(勝手な事をするなよ)!」と怒りをぶつけるが、既に彼の書いた物語に惹き込まれている。

こんな風で、編集長の部屋は、セルゲイと編集長の会話の場にもなり、また、「作中作」のアレクセイ伯爵邸にも、その庭や森にもなる。
編集長は、セルゲイの持ち込んだ小説の読者であるし、「註」もあちこちにあるため出番も多く、最初から最後迄ずっと舞台のどこかにいる事になる。
永井愛の巧妙な「作中作」の仕掛けである。


この小説が書かれた1880年代のロシアはどんな時代だったか、一応簡単に触れておく事にする。

チェーホフを含む当時のロシア知識層の青年らは、大学でフランス革命に端を発した自由主義思想に触発されるものの、ロシアは依然として皇帝が支配し、農奴の多くは読み書きすらできない。
そうした実態がロシアの国力を低いままにしていると考えた青年貴族達は、農奴解放、自由主義的な政府の実現を目指し、1825年、デカブリストの乱を起こした。
だが、反乱は1日で鎮圧され、逆に専制の強化をもたらした。
改革の夢を失った知識人の間には冷笑的な空気が蔓延し、遊び暮らす屈折した青年達が数多く発生した。セルゲイもそうした青年の1人だろう。

1861年には農奴解放令が出されるが、これはアレクサンドル2世によってお上から出されたもので、結果、元農奴は地主である貴族に多額の借金を抱えたり、高い小作料を払ったりする事となり、彼らの暮らしは一層苦しくなった。
帝政への反発が強まると、皇帝は検閲や秘密警察による言論弾圧を強化。改革を目指した青年らの間にはニヒリズムが広がる。

(続く)
 
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