11.20(木)、NHK-BS「世界のドキュメンタリー 選」で放送された『ラ・シングラ 幻のフラメンコダンサー』を観る。
初回放送は2024.12.20の「ドキュランドへようこそ」。
「ラ・シングラ」の本名はアントニア・シングラ(1948- )。
バルセロナのソモロストロ地区、ロマのスラムで生まれた。彼女もロマの血を引く。
生まれて8日目に髄膜炎を患い聴力を失ったが、ヨーロッパでフラメンコダンサーとして一世を風靡した。
しかし、20歳頃、突然人前から姿を消し、その後行方知れず。
本作で語りもしているセビリヤの女優エレナ・カイタニが、彼女の半生とその後を追うという仕組みである。
僅かに残されたモノクロ映像でシングラの踊りを見ると、そのキレのいいリズム感、極限迄テンポを上げていく恐ろしい程のタップ、指先に籠る表情、そして野生動物のような鋭い眼差しに驚かされる。歌もギター伴奏も聞こえずに、ここ迄できるものか!
古い動画なので画質は悪いが。
https://youtu.be/-J3hOK-SGNs
記者から耳が聞こえないのにどうやって踊っているのか、と質問された事があるという。
それに対して、若いアントニアは「怒り」とだけ答えた。
その意味を問われると、また「怒り」と繰り返した。
言葉を発する事ができるようになって間もなかったせいかもしれないが、そばにいた母親は怒りを踊りで表現していますと、記者に説明したそうだ。
母親は続けた、娘は11歳の頃から鏡の前で踊っていた。
急激な上達に、耳が聞こえるようになったのではと思うくらいだった。医者からも良くなってきていると言われた。
しかし、娘は殆ど話さない。
そして声を絞り出して言ったのは、「中で縛られている」と。
声帯の問題でなく、言葉が見つからないのかもしれない。
音楽は聞こえなくとも、母親の手拍子やギタリストの動きを見て合わせる事、アントニアは身体でリズムをとる事を習得していく。
どんなきっかけか知らないが、アントニアは映画『ロス・タラントス〜バルセロナ物語』(1963)で主役女性の幼い頃を演じている。
耳は相変わらず聞こえないが、言葉は修練によって何とか使い始めていた頃。(但し映画の声は吹き替え。) 僅かでも、14歳のアントニアの踊りを見る事ができるのは貴重だ。
この映画には当時「フラメンコの女王」と称されていたカルメン・アマヤ(1913-63)が病身ながら出演していて、アマヤの役どころは、アントニア演ずる若い主演女性を愛し助ける。
映画のあとも、アントニアはアマヤのそばに付き添った。しかし、彼女は映画公開の前に亡くなってしまう。
実はアマヤもアントニアと同じソモロストロのスラム生まれだった。
アントニアはダンスの腕を上げ、彼女のちょっとした取り巻きも生まれた。
その中の1人は教養があり顔の広い人だったので、文化人やセレブ達の集りに彼女をつれていって、踊りを披露させた。
シャンソンのジルベール・ベコーなどもたまたまそこにいた。これが「ラ・シングラ」の誕生である。
その頃、行方不明になっていた父がシングラの前に現れた。
アントニアの取り巻きの1人で、カイタニに話を聞かせてくれた女性は、その父を「腹黒い人物」と呼んだ。
彼は家族を捨ててフランスにいたのだが、名の売れてきたシングラを金づるになると考え、マネージャーになった。
彼はシングラを独占、スペインからヨーロッパ各国へとツアーに出かけた。
シングラは耳の聞こえない天才フラメンコダンサーとして母国より先に名前をあげていく。
カイタニは資料の中からその頃の記事の切り抜きを多数見つける。
そのタイトルだけ拾うと、例えば、
「カルメン・アマヤの再来」、
「ダリがラ・シングラをモデルにした」、
「ミロから絵画を捧げられた」、
「踊りでロルカの詩を表現した」。
ダリのパーティにはあのマルセル・デュシャンも来ていた。
ジャン・コクトーはラ・シングラの激しい踊りを見て言った「彼女は口から火を吐き、それを足で踏み潰す」。
ドイツでは彼女の半生を描くTV番組『アントニア・シングラ物語』(1964)も作られた。半分はフィクションであったが。
ドイツの某プロデューサーは、フラメンコ・フェスティバル(1965)を開催。
ジャズが勃興する潮流にあって、世の中にはジャズとフラメンコの親近性を主張する者も現れた。
17歳になったラ・シングラは「世界一のフラメンコダンサー」との評価を受ける。
ジャン・コクトーの言葉が盛んに引用され、出演依頼が殺到。
「150万ペセタの足」とか「(これで)23人のきょうだいを扶養する」とか。
1968年、世界をまたに駆けたあるプロデューサーがラ・シングラの世界ツアーを発案。
だが、父親はオファーを断る手紙を出した。
そして、ラ・シングラは世の中から突然姿を消す。
カイタニはその後の足取りを追うため、バルセロナへ飛ぶ。
彼女の生地のスラムはもはやすっかり無くなっていたが、偶然アントニアの弟と会う事ができた。
アントニアは、サンタコロマ・デ・グラマネという町で存命である事が分かった。
カイタニはまずその娘に会い、話を聴いた。
アントニアは心臓に問題を抱えているが、子供が2人、孫も2人いる。
辛い思いがあるようで、父の事は思いだしたくないと言っている。彼は束縛の強い人だった、と。
そして、とうとうカイタニはその後の「ラ・シングラ」に会う事がでてきた。
70歳代で肥満気味、動きの悪い彼女からは「ラ・シングラ」の面影はない。
彼女はカイタニの口の動きで話を聞き、静かに話す、
「幼い頃から幸せを感じた事がない、ずっと悲しかった、人前でいつも笑っていたけど」。
「耳が聞こえず、話もできない。いつも独りだった。友達は鏡の中で踊る自分だけ」。
「ツアーは旅から旅の毎日。ウィーン、スイス、パリ。
当時の汽車の音はフラメンコのリズムに感じられたものだった。それをヒントにアレグリアスやソレアのリズムを作った。
ショーの構成は全て自分で決めた。父が他の出演者と会わせてくれず、楽屋の外には出してくれなかったから」。
「踊りはやめたかった、でも家族を養うために踊らなくてはならなかった」。
「ツアーの途中でうつ病になった。身体が思うように動かなくなってダンサーをやめた」。
付き添う夫アントニオも話した、
「結婚して2年間は幸せだった。だが、神経の病で踊れなくなった。
身体にも不調が現れて、甲状腺の手術をしたし、不整脈もある。
今はあの頃に比べれば大分よくなったのだが。」
彼女の封印された記憶、それは虐待と言っていいものだったかもしれない。古傷はいつ疼きだすかも分からない。
「ラ・シングラ」の踊りは溜め込んできた怒りを解き放とうとするものだったのかもしれない。
その沈黙の叫びが、映像などで見る我々の心を、今も揺さぶる。
脚本・監督 パロマ・サパタ
2023年/スペイン,ドイツ
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