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2025年09月22日19:17

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島田のパンプキン/島田市博物館~1/4

9/20(土)、島田市博物館で企画展「戦争を忘れない~島田が歩んだ太平洋戦争」を観る。

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・会期 6/28~9/21
最終日の1日前になって、ようやく行く事ができた。
島田市博物館はこれで3度目か。大井川を渡った東岸にあるが、高速道路を使えば浜松にある我が家から45分程で着く。

終戦から80年、戦争体験者も減り、戦争の記憶を語り継ぐ事が難しくなってきている。
この歴史的な節目に戦争の記憶を後世に伝えるために、と、島田博物館は本展を企画した。
思うのだが、社会科の教科書を読んでも、なかなか歴史は伝わらない。他人事で終わってしまう。
自らに縁のある土地(必ずしも郷里に留まらない)の歴史を、歩き、見て触れてこそ、歴史は自分の歴史となり、生きて脳に刻みこまれる。そうした歴史でなければ、なかなか人に伝える事はできない。

本展は、副題にあるように「島田が歩んだ太平洋戦争」である。
島田には、1945年7/26、「パンプキン爆弾」が落とされた。全国で30都市に投下された特別の爆弾だが、知らない人も多かろう。
米国は原子爆弾を広島・長崎に落とす前、投下訓練の一環として、謂わば模擬実験としてこの爆弾を使った。模擬実験といっても、長崎に落とされた原爆「ファットマン」と同じ形、同じ重量で、同型爆撃機が使われた。色は橙黄色に塗られ、そこからパンプキンと綽名がついた。大きな容器に火薬がぎっしり詰まっていて、これ1発で、島田は47人が亡くなり、負傷者140余人、全半壊家屋120戸以上という被害を蒙った。

写真はパンプキンの実物大模型。島田市公式ホームページより。
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島田の太平洋戦争を考えるという事は、当然原子爆弾について考え直す事にもつながる。
そして、今も世界のあちこちで繰り返されている戦争を改めて考える事につながればと思う。

◆プロローグ「島田の軍需生産」
島田とはどういう都市だったか?
静岡県は東京と大阪のほぼ真ん中に位置し、地理的利便性が高く、航空機などの重工業拠点がたくさん存在していた。戦争期には、政府はこれらを軍需工場に指定した。
現在も島田市で操業を続ける「北河(きたがわ)製品所」もその1つで、1896(明治29)年創業時には化学製品を主に製造していたが、大正期に塗料の生産を開始、太平洋戦争下では、金属塗料製造の軍需工場に指定され、陸海軍の航空機の塗装に使われた。

今もこの製品所は島田市博物館の北1.3kmの大井川沿いにある。
敷地内には、1898(明治31)年から大正期に建造された赤レンガの工場・倉庫、1930(昭和5)年に建造されたコンクリートの新館があり、新館の屋上には爆撃機撃墜用の機関銃台座跡が残っている。
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北河製品所は、そして、海軍航空廠や、零戦等戦闘機などを開発していた三菱重工業からの塗料の注文書を今も保存している。
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最後の津海軍工廠からの注文書は、終戦間際、1945(昭和20)年8/9の日付けが入っている事に驚かされる。
そこには7/14付け注文書の承諾書がま提出であるから早く出せとも付記されている。
原料調達の問題からか、北河製品所が塗料生産に窮していた事が分かる。

◆第1章「戦争のはじまり」
世界恐慌を機に陥った昭和恐慌から脱するため満蒙地域を手に入れる事を目的とした満州事変は、1931(昭和6)年9/18、関東軍による奉天郊外 南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)し、これを中国軍の仕業として満州へ侵攻した事から起こった。
翌年には清王朝最後の皇帝溥儀を執政として傀儡国家建国を宣言。
日本政府は、満蒙開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍などの移民を進める。
静岡県からは約9000人が移住、志太・榛原及び中川根村(現 島田市の一部また隣接)から617人が開拓団として送り出された。

中国国内で抗日運動が高まると、日本国内では戦争やむなしという世論が強まった。
1937(昭和12)年7/7には、北京付近で日本軍と中国軍が衝突する盧溝橋事件が発生、日中戦争に発展する。

静岡市の駿府城跡にいた日本陸軍歩兵第34連隊も日中戦争に送られた。
同年、日本からの増派前の上海戦は激しいもので、第34連隊約3800人のうち戦病死者1310人、戦傷者2146人という大量の犠牲を生んだ。
旧島田町、旧金谷町は歩兵第34連隊に与していたため、多くの犠牲者が出て、町葬が執り行われた。
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不拡大政策を採ってきた近衛内閣だが、こののち、中国内での戦争は拡大の一途を辿り、泥沼へと陥っていく。

満州事変以降国際的に孤立した日本は、1940(昭和15)年日独伊三国同盟を締結。
同年のナチスドイツによるフランス占領を見て、日本は資源確保を目指し、フランス領インドシナに侵攻。
これは米国を強く刺激する事となり、在米日本資産を凍結、のち日本への石油輸出停止の措置を採る。
日本は石油輸入の8割を米国に依存していたため、国内では対米開戦論が高まった。
1941(昭和16)年11月、米より満州事変以前の状態に戻せとの最後通牒「ハル・ノート」が提示される。
日本はそれを受け入れず、開戦を決意。
同年12/8、日本軍はハワイ真珠湾とイギリス領マレー半島を奇襲攻撃。連合軍と開戦。
翌日の朝日新聞。
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下は1942(昭和17)年頃、満州国旗に寄せ書きされ、静岡県から送り出された満蒙開拓団に渡されたもの。
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本来の満州国旗は上下逆。
中央下には、戦前に島田町長や衆議院議員を務めた加藤弘造の名がある。大政翼賛会の要職を務め、戦後は公職追放となった。

「早期にアメリカに戦争を仕掛け、優位な戦況で講和を結ぶ」というのが当初の戦争遂行構想だったが、初期作戦が成功する(それらは殆ど奇襲による成果だったが)と、攻勢を進める方向に転じるべしとの意見が軍部、国民間に強まり、中部太平洋での日米決戦へ。
ところが、1942(昭和17)年6月、ミッドウェー海戦に大敗。
これ以降太平洋各地で連合軍の反撃を受ける。

・臨時召集
戦死者急増を受け、日本は1941年11月より臨時召集(赤紙)を開始。
1943年より召集年限を40歳から45歳に引き上げ、同年、学徒出陣も始まる。
旧島田町,旧金谷町、また人口の少ない村部からも召集が進み、結果的に労働力を失った地域は農産物の生産が低下。国民の生活は厳しさを増した。

静岡市丸山町の出征兵士壮行会の様子。氏名年月日不詳。
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1944(昭和19)年、下川根村(現 島田市川根町)出身の堀田大吉に送られた日章旗。寄せ書きは氏名のみ。
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同年、別の寄せ書き入り日章旗。サイパン島にて22歳で戦死した旧金谷町出身 山内正夫が持っていたもの。
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米軍が戦利品として持ち帰り、2024(令和6)年、遺族に返還された。
現在も、日米間では戦没者の遺品返還事業が続けられている。

・軍事郵便
フィリピン戦線に出征した兵士が故郷 島田市の両親に宛てたハガキ。郵送料は無料だったが内容は隅々迄検閲された。
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(続く)
 
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