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2025年09月04日16:00

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ETV特集『ヒロシマからの手紙-"原爆"を綴ったアメリカ人たち』~3/4

(続き)

太平洋戦争終結後の9月、米軍が原爆が人や建物に与えた影響を調査するチーム(正式名アメリカ戦略爆撃調査団)を広島,長崎に派遣した。
その中にフィリップ・モリソンがいた。原爆の開発に携わり、アルヴァレズと伴に、日本人科学者宛ての手紙を書いた人物だ。
自分達が発明したものが何をもたらしたのか、モリソンはその目で見た。
当時原爆被害の詳しい実態は軍に隠され、米国民には知らされていなかった。

広島から戻ったモリソンは米国連邦議会で包み隠さず報告した。
「私の目的は、原爆を生みだした科学者が廃墟を目の当たりにし、生存者と話して分かった事を、できるだけ正確に皆さんに伝える事です。衝撃的なのは死傷者の膨大さです。1マイル以内にいたほぼ全ての人が重度の火傷を負いました。また、大量の放射線を浴びた事でも人々は死んでいきました。血液の機能は壊され、白血球は減少し、感染症にかかると2〜3週間で死にます。まるで原爆による伝染病のようでした。
私はもう二度とこうした戦争を許してはならないと強く確信します。」

一方、マンハッタン計画の軍の責任者レズリー・グローブス将軍は、モリソンとは逆に、被害を軽視する発言を繰り返した。
「多少の日本人が放射線に晒されようが、その10倍の米国人の命を救ったのだから問題にならない。医師達によると、放射線による死は大した苦痛もなく心地好いものだそうだ。」

被害の深刻さは軍によって否定され、モリソンの報告が世論を大きく動かす事はなかった。

米軍の調査団は広島,長崎の記録映像を持ち帰っていた。一部はロスアラモスに運ばれた。
11月になって、フィリスは1本の記録映画を見た。
「この夜、私が目にした広島,長崎の地獄の情景は忘れようがありません。
何もかも燃え尽きた荒野が延々と写し出されました。恐怖と痛みで顔が引きつった人々、廃墟をうろつく子供達、茫然とした赤ちゃん。
私は体調を崩してしまいました。頭痛と吐き気がやまず、お医者様に診て頂きましたが、回復しないままでした。」

フィリスの孫レイチェル・ロビンズは、NHK取材班のインタビューに答えた。
「ロスアラモスでは両極化した感情が渦巻いていたと思います。
祖母は日本人の命をあまりにも軽んじていると感じたのです。
彼女は本当に異常な時代に生きていて、恐怖を抱えながらも、人間性を保とうと毎日を耐え忍んでいたのだと思います。」

戦後、米国は原爆の技術を独占する事でソ連に対抗しようとしていた。

1948年7/21、大統領トルーマンは軍の首脳部(陸軍長官ロイヤル,国防長官フォレスタル,空軍長官サイミントン)から要求を突きつけられている。
「原子爆弾は軍による直接管理にすべきだ。」

しかし、トルーマンは彼らにこう返答した。
〜原子力委員会委員長の日記〜
「これ程迄の破壊力を持つ兵器の使用を命じる事は恐るべき事だ。
これは通常の兵器ではない事を理解して欲しい。女性や子供、武器を持たない人々を皆殺しにするものであり、ライフルや大砲などと扱いを分けなければならない。」
トルーマンは核兵器の管理を軍に委ねず、専門の委員会に任せ、使用権限は大統領自身に留めた。

米国の核の独占は長くは続かなかった。
1949年8月、ソ連原爆開発に成功。

これに危機感を覚えたのは、あのアルヴァレズだった。
彼は原爆よりも更に威力の強い水素爆弾開発に動きだした。
かつて息子への手紙に綴った「アルフレッド・ノーベルの夢」、つまり、より強い兵器を生みだせば戦争を防ぐ事ができるという理想を再び追い始めたのである。
水爆開発に反対の意を唱えたのはフィリップ・モリソン。かつて息子に原爆投下に後悔し、伴に終戦を目指す手紙を綴ってラジオゾンデに入れた2人の意見は割れた。
原爆の父オッペンハイマーも、核の開発競争の激化を懸念して反対。科学界が二分される事態となった。

水爆を作るべきか結論は大統領トルーマンに委ねられた。
ソ連が原爆を開発した半年後の発言。
〜トルーマン回顧録〜
「核兵器は間違った者の手に渡れば災厄をもたらす。しかし、正しい者の手に渡れば侵略と無謀な戦争に対抗する大きな力となる。」
結局、トルーマンは水爆開発を決断した。国家を守る大義の前に、より強い核兵器を求める道を選んだ。

1952年、米国は水爆を完成させる。初の水爆実験は1953年11/1、中部太平洋マーシャル諸島のエンウェタック(またはエニウェトク)環礁で行われた。広島の原爆のおよそ700倍の威力を誇った。
しかし、翌1953年、ソ連もまた水爆開発に成功。
際限なき核兵器開発競争が加速していく。

同じ頃、アジアで核兵器使用の危機が浮上した。朝鮮戦争(1950-53)だ。
米国は北朝鮮で中国軍を相手に苦戦、現地司令官マッカーサーは複数の原爆投下を進言した。
以下、原爆投下の標的の検討リスト。その画像アップ。
フォト

フォト

驚く事に、ウラジオストク,ハバロフスク,北京,大連,ハルビンなども入っている。単純に足し算すると26発!
しかし、トルーマンはこれを却下。
1951年4/11、マッカーサー解任。

だいぶのちになるが、1953年1/15、朝鮮戦争で原爆投下を求めた声に公に反論した。
〜トルーマン図書館〜
「時々、私に短気な人達から手紙が着く事がある。何故最後通牒を発し、全面戦争をしかけ、原爆を落とさないのか?
私達はそのような考えはしない。私達は道徳的な人間なのだ。正義と自由を備えた平和が、私達の目標である。
核戦争を始める事は、理性的な人間にとって全く考えられない事なのだ。」

このトルーマンの発言に異議を唱えた人物がいる。原子力委員会のトーマス・マレー。
彼は翌日トルーマンに手紙を書いた。
「あなたのご発言は、核戦争の道徳性について人々を混乱させるおそれがあります。
我々は1945年に核戦争を開始しました。当時もそして現在に至る迄、核戦争は不道徳な行為ではないと信じています。」

これに対しトルーマンは返信した、大統領退任の前日だった。
「1953年1/19 親愛なるマレー様
核兵器の使用に対する私の考え方について、あなたは間違った解釈をしている。
核兵器は市民を大量虐殺するという点で、毒ガスや生物兵器よりも遥かに悪だ。
いつか機会があれば、この件について、あなたとじっくり話し合えればと願う。 ハリー・トルーマン」

その後も、キューバ危機やベトナム戦争など核兵器使用の可能性が浮上する事態が繰り返されてきた。
しかし、3度目の使用は80年間行われていない。


(続く)
 
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