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2025年09月03日18:47

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ETV特集『ヒロシマからの手紙-"原爆"を綴ったアメリカ人たち』~2/4

(続き)

ロスアラモスで9ヶ月を過ごし、フィリスはこの町の秘密を知る事になる、科学者達が慌ただしく出かけて行った日の事だった。
「その日、夫レオンがやっと打ち明けました。
トリニティ実験(*)の準備中、科学者達が交わした話を聞いて"これは危ない"と感じたのだそうです。
科学者によっては、大気中で連鎖反応が起き周囲の空気も次々爆発するかもしれない、とさえ言っていたのだとか。
その時はもう、世界が終わってしまう。」
 (*)レポート�,任盻颪い拭�1945年7/16、米国で行われた人類初の核爆発実験の事。

とてつもない新兵器の開発、フィリスは間もなく、それが思いがけない使われ方をした事を知る。

 8/6 広島原爆投下。

続けてフィリス。
「友達のメアリーが、道の向こうから呼びかけてくれたの。ラジオをつけて! 素晴らしいニュース! 戦争が終わりそうなの。あたし達皆家へ帰れるかも。
ラジオをつけると、信じられないような放送が流れてきました。
"あの兵器が誰も予想しなかった程上手くいった。聞いた事もないヒロシマとかいう人口35万人の都市を消し去った"って、アナウンサーは我慢できずに大声で叫んでいました。」

その頃テニアン島では2発目の原爆投下に向けた準備が進んでいた。

史上初の原爆投下に立ち会い、広島の上空から戻ってきたフィリスの夫、物理学者で原爆開発に参加したアルヴァレズ。
このままでは次々と原爆が投下され、膨大な命が失われていくと考え、密かにある行動に出た。
それは手紙を書く事だった、原爆の恐ろしさをよく知る日本人に警告し、軍に降伏を促してもらおうと。
宛先は、米国の同じ大学で学んだ物理学者 嵯峨根遼吉。この時は既に日本に帰国していた。
その手紙を一緒に書いたのは同僚で物理学者のフィリップ・モリソン。アルヴァレズと同じくオッペンハイマーに見出され原爆の開発に関わっていた。
書いたはいいが、手紙を敵国の日本にどうやって届けるのか?
2人が思いついたのは原爆の威力を観測する装置ラジオゾンデに忍ばせる事だった。

 8/9 長崎原爆投下。

あとになって分かった事だが、手紙を入れたラジオゾンデは、原爆とほぼ同時にパラシュートに付けて放たれ、爆心地から東へ約11km離れた地点(現長崎市川内町)に落ちていた。
80年前、そのラジオゾンデを目撃した人がいる、林田富雄(86歳)。
山深い町の山裾に「今も白い木の標識(*)が立っている、あそこです。あの上の木にパラシュートが引っかかっとったですよ。これは爆弾の入っちょるかもしれんけ、警防団がそこにロープをはってもうたんですよ。絶対に行くなって、危ないって。」
 (*)下の写真はTV画面を撮影したもので粒子が粗いけれども、「原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点」と書かれているのが分かるだろうか。
フォト


ラジオゾンデに入れた手紙はどのような物だったのか。
長崎原爆資料館の海老沢優紀学芸員が所蔵庫から出してきたのは、A3かB4程の大きさのしっかりした白い紙。
フォト

手書きの英語で以下の通り書かれていた。
「1945年8/9、嵯峨根教授へ
この手紙を個人的なメッセージとして君に送る。
この戦争を続けたら、日本の国民が大変な被害をこうむる事を、著名な核物理学者である君の影響力を行使し、参謀本部の人間を説得して欲しい。もし戦争を続ければ、日本の全ての都市は滅び、無駄に人命が奪われる。君は戦争を止める説得に全力を尽くして欲しい。
私達は科学の成果がこのように使用された事を嘆いている。」

アルヴァレズ達の手紙は日本軍に回収され、目的は果たされなかった。
2発目、長崎への原爆投下は新聞の一面に大きく報じられ、米国民は再び歓喜に沸いた。

だが、ロスアラモスのフィリスは、ひとり違和感を募らせていた。
「一体何て事なの!昨日の長崎爆撃には衝撃を受けました。
どうして2発目を落とさなくてはならないのか、分からない。
2発の原爆を小さな無人島にでも落として、威力を見せつけるだけにできなかったのでしょうか?」

その後トルーマン大統領が発したラジオ演説。
「戦争を早く終わらせ、多くの米国の若者の命を救うため、原爆を投下した。
私達は日本が戦争を遂行する能力を完全に破壊する迄この兵器を使用し続けるだろう。
日本の降伏だけが私達を止める事ができる。」

大統領の下には日本への更なる攻撃を求める声が届いた。
以下は対日強硬派の上院議院リチャード・ラッセルの8/7付け電報。
「日本が無条件降伏をさせてくれと懇願してくる迄この戦争を続行しましょう。
次の原爆の準備を進め、それ迄は高性能爆弾や焼夷弾で攻撃し続けましょう。
日本から警告なしに第一撃を受けた事を我々は忘れません。
我々米国人は日本人がひれ伏す迄攻め続けるべきだと信じています。」

8/9付け、ラッセル宛てトルーマンの返信。
「日本はひどく残虐で野蛮な国だ」と書いた上で続けている。
「日本の愚かな指導者達のせいだとはいえ、多くの市民を全滅させなければならなかったのか、個人的には後悔している。
そして、これは特にあなただけに伝えるが、今後"絶対に必要"という状況でない限り、私は原子爆弾を使用するつもりはない。」

この手紙の中で原爆投下を後悔し、更なる使用を拒んだトルーマン。その真意とは?

イリノイ州シカゴに住むトルーマンの孫、クリフトン・トルーマン・ダニエル。
幼い頃から祖父の姿を間近で見てきた。
「祖父の家は農家で家畜を扱う商人、一生懸命働く中間層の暮らしをしていました。
よく働き、正直に、他人に礼儀正しく共感を持つ事、そういう風に育てられたんです。
あのような決断が正しいか間違っているか、孫の私には何とも言えません。
祖父はいつも戦争を早く終わらせるためには必要な事をした。米国人と日本人の命を救うため、殺戮を止めるために決断したのだ、と言っていました。」

トルーマンの大統領就任は突然だった。1945年4/12、日本との激しい戦いが続く中、大統領フランクリン・ルーズベルト(1882-1945)が急死。急遽副大統領だったトルーマンが大統領になる事に。
この時迄、トルーマンは原爆の存在について一切知らされていなかった。
ソ連との激しい駆け引き。その中で米軍の犠牲を抑え、日本との戦争に如何に早く勝利するか、重責を担う事となった。

広島原爆投下から2日後の8/8、トルーマンに報告が届く。
トルーマンが見たと考えられる航空写真。殆ど焼け野原と化した市内。
原爆がもたらした被害を目の当たりにした時の彼の様子が陸軍長官の日記に残されている。
「大統領は、破壊の規模を目にし、とてつもない責任を負った事を自覚した。」

トルーマンが強硬派議員ラッセルに対し、あの後悔の手紙を書いたのは、この写真を見た翌日の事だった。
トルーマンの手紙の続き。
「今後"絶対に必要"という状況でない限り、私は原子爆弾を使用するつもりはない。
私の目的は、できる限り多くの米国人の命を救う事だ。しかし同時に、私は日本の女性や子供に対して倫理的な感情も持ち合わせている。 ハリー・トルーマン」

翌8/10、トルーマンは閣議で「これ以上原爆を落としてはならない」と正式に命令を下した。
3発目の原爆が使用される事はなかった。

 8/14 日本 ポツダム宣言/無条件降伏受諾。
 8/15 玉音放送。

この頃米国で、原爆投下への国民の支持は85%にのぼった。(ギャラップ調査による)


(続く)
 
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