本日は、東京中野で三浦綾子文学講座『−小説「母」を語る−』が開かれました
『母』
解題
1992年(平成4)年3月、角川書店より描き下ろし単行本で刊行された
*「銃口」:90.1〜93.8
1981年 『イエス・キリストの生涯』
「アヴィニョンのピエタ」
1983年 小樽シオン教会を訪問取材
「アヴィニョンのピエタ」画像
『イエス・キリストの生涯』の「アヴィニョンのピエタ」の箇所に「なんと傷だらけのイエスであろう。瞼は黒ずみ、表情も喘ぐような辛さを見せている。私はふっと、獄死した小林多喜二の苦しみとその母の悲しみを想像した。−−中略−−この無残なイエスの死体は、一体、私たちに何を物語っているのだろう。』(『イエス・キリストの生涯』ピエタより引用)
ここで既に綾子さんは小林多喜二のことに言及しているが、実はまだ多喜二について十分詳しく知らなかったことが「獄死」という言葉から窺えます。
「小林多喜二の遺体」画像
小林多喜二の遺体を抱く母(セキ)画像
小説『母』は文庫で200ページほどの作品ですが、10年近い年月を掛けて作り上げられたものです。
その間、綾子さんは直腸がんを患い、死の影を感じながら作家生活を過ごしており、『母』発表の直前1992年1月にはパーキンソン病の診断が下されるなど、作家生活の夕暮れを感じていたことが想像される。
このような語り出しで始まりました。
この作品の成功の秘訣
◯語ること・・・母=小林セキさんの秋田弁風の独り語りのスタイルをとったこと
◯綾子さんの口述を光世さんが行うのだが、ある程度原稿が進んだところで光世さんが朗読する。それが綾子さんが自分の作品に接する最初の機会となる。光世さんは朗読の名人なので、お二人のコラボレーションが最大に生かされた作品となったこと
この2つの要素が大きいと思われるとのことでした。
「四月にしては珍しい、あったかい日ですね、今日は。北海道の四月ったら、もっと寒いもんですけどね。増毛のほうの山も、はっきり見えて、海もきれいで、いい日だね。」と晩年のセキさんが語り出す。
しかしセキさんの歩んできた人生は「あったかい日」ばかりではなく、むしろ数多くの辛さ、悲しさ、悔しさに彩られていたといえるかもしれません。
子供時代、学校に行けなかったこと
友達が貧しさの中で売られて行ったこと
長男多喜郎が12歳で亡くなってしまったこと
故郷の田畑を手放さなければならなかったこと
次男の多喜二が築地署で裁判も受けずに殺されたこと
そんなセキさんに
毎年多喜二の命日に当たる2月20日にタミちゃんが訪問して励ましてくれたこと
近藤牧師が訪れてくれたこと
様々な出合いの中でセキさんは 泣いてくださるお方に出会うことが出来た・・・
午前・午後で延べ20名以上の方が参加してくださいました。
午後の講演終了後のお茶の時間も和気藹々と質疑応答の時間が持てまして、和やかな雰囲気で講演会はお開きとなりました。
ここに書き切れませんので、北見読書会の講演会報告もご参考になさってください。
http://blog.livedoor.jp/ag_kitami-dokushokai/archives/1065351041.html
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