10/6(土)、BSテレ東の[美の巨人たち]は高島野十郎を特集し、中でも《蝋燭》にスポットライトを当てた。
高島野十郎は1890(明治23)年に福岡県久留米市で生まれ、1975(昭和50)年、千葉県野田市の特別養護老人ホームで病死した。満85歳。
生前は隠遁者のような暮らしをし、その作品は殆ど知られる事がなかった。
師に就かず、画壇からは距離を置き、結婚もせず、孤高の生涯を送った。
没後、1980(昭和55)年、福岡県立美術館の企画展「近代洋画と福岡県」にたった1枚《すいれんの池》(1949)が出品された。
この絵に興味を持った同館学芸員西本匡伸(現学芸グループ長)が、高島野十郎の本格的研究を始めた。
これが彼の絵が世に知られるようになったスタートである。
福岡県立美術館はその後多くの作品を収集し、今も研究の最前線にいる。
今回の番組も、同館の協力で成り立っていると言って過言でない。
今でこそ一部の絵で知る人ぞ知る画家となったが、決してポピュラーな画家ではない。
《蝋燭》という小品を高島は繰り返し描いたが、実は、彼はそれを一度も売った事がない。
それにまつわる謎を、今回の番組は丁寧に掘り起こしていた。
私は、一昨年2016年4月に、目黒区美術館で彼の回顧展を観ている。
参)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952132686&owner_id=3341406&org_id=1952109588
改めて見ると、同日記の「view」が1,950を超えていて、驚いた。
その回顧展は、147点が展示された大規模なものだった。
今一度図録を見ると、同展企画は福岡県立美術館で、内35点が福岡県立美術館所蔵品だった。資料は7点の内6点が同館のものであった。
図録執筆者も西本匡伸他同館学芸員がメインである。
高島は本名を「彌壽」(やじゅ)といった。
「野十郎」は自称で、野で果てるのが願うところである、という意味が籠められているとの事。
福岡県久留米市の酒造業の大地主の家に、6男2女の5男として生まれた。
長兄 宇朗(うろう)は詩人で、同地の画家 青木繁と親友の仲だった事もあり、絵に興味を持ったと言われる。
長男で懲りた父の命に従い、1912(明治45)年、東京帝国大学農学部水産学科に進む。
野十郎は成績優秀で、1916(大正5)年、同科を首席で卒業している。
しかし、絵は大学時代既に独学で学んでいた。
《魚類の観察図》(1915頃)という学生時代の研究スケッチが残されているが、素晴らしい写実である。彼は魚類の感覚器官を研究テーマにしていた。
卒業時の陛下恩賜の銀時計辞退については、前掲の日記をお読み頂きたい。
卒業後、画家の道を進むが、前述の通り、誰かに師事した経歴もない。
彼の経歴の詳細がこの番組のテーマではないので、時代は一気に飛ぶ。
東京では1948(昭和23)年から港区青山南町に住んでいたが、折りしも東京オリンピックの為の道路拡張工事のため立ち退きを余儀なくされた。
1960(昭和35)年、千葉県柏市増尾という、当時は長閑な農村地帯が気に入り、移住する事となる。既に70歳の年である。
野十郎に土地を貸した伊藤武さんが番組で発言していた。
野十郎は「電灯も何もない寂しいところがいい」と、この辺りを気に入った様子だった由。
彼の土地の隅に、アトリエ兼住居の平屋を建てる。建坪約28�屬龍垢い發里世辰拭�
彼が言う通り、電気だけでなく、ガスも水道もなかった。水は井戸を掘って汲み、七輪に火を熾して煮炊きした。
布袋にワラを入れて布団にし、それをベッドして寝起きした。
家の周囲は畑にして、野菜を作った。
伊藤氏によると、普段家にいる時は今の「ホームレスみたいな恰好をしていた」ので、村の人達はナメてかかった。しかし、東京に出る時、ヨーロッパスタイルに山高帽とマントいう出で立ちだったので、「普通モンじゃないぞ」と思った、と。
野十郎本人は「ここはパラダイスだ」と増尾の土地と生活を気に入った。
何が「パラダイス」だったのかと考えてみるに、移住後の彼の作品を見てみよう。
《夕月》(1961頃)、《月》(1961以降,1962,1962頃,1963頃2点)全5点、《満月》(1963頃2点)と、月を描いた作品が続いている。
しかも、最初は風景の中の月だったのが、次第に風景や木々や雲がなくなり、時間が遅くなり、遂にはただ暗闇の中の月に単純化されていく。
つまり、これ程に月が美しく映えて見えたのだろう。増尾の夜は、月明かりを邪魔するものがなかったという事だ、と想像される。
野十郎は言っている、「月は闇を覗くために開けた穴です」と。
野十郎の一生のテーマの主たるものが光と闇だったのである。
そしてまた、増尾の暮らしは都会と違い、人付き合いの煩わしさがなく、存分に孤独になって、画業に専心できた、そういう側面もあったろう。
光と闇のテーマ、それは言う迄もなく《蝋燭》作品にもつながる。
1本の蝋燭を描いた作品は、確認されているだけで40点程ある。
2016年の回顧展でも、全147点の内19点が《蝋燭》のシリーズだった。
サイズは皆小さく、23×16�兪宛紊里發里�殆どだ。カンバスでなく板に直接油彩したものが多い。
そして、冒頭にも書いた通り、これらは決して売るために描かれたものではない。
「焚き付けの用にでもして下さい」という言葉を付け、友人や、これ迄に他の絵を購入してくれた人達に、感謝の意を籠めて贈ったのである。
福岡県立美術館の西本は、《蝋燭》の所有者の多くを訪ねた。
すると、「貰った人達は仏壇に燈明代わりとして使っていた家を多く見た」そうである。
絵画作品としては、何とも特別の置かれ方である。
絵であるから実際は灯りの代わりにはならないのだが、ついそういう風に置いてしまうという事は、《蝋燭》という作品の特別性を物語っているように思える。
やはり《蝋燭》の所有者であるロシア文学者 川崎浹(とおる)は言っている、
「小さな額の中で、生命のように消えていって、やがて無くなる」、それは「人間のシンボル」である。
(川崎は『過激な隠遁 高島野十郎評伝』/2008年求龍堂発行、を書いた人物である。)
また、野十郎本人は次のように言っている、
「《蝋燭》は自分にとって絵馬みたいなもの」、「人々の心の中に《蝋燭》を奉納した」のだ、と。
旧所有者の望月雅子さんは、「たぶん祖母が貰ったのだが、野十郎とは家族ぐるみの付き合いだった」、「感謝の意味で(祖母に)贈られた」ものだった、と発言している。
「夜中に起きて、黒い布を被って描いた」、そう野十郎本人が言っていたのを記憶している、とも。
《蝋燭》はそうした個人的な制作意図によったものであるため、描かれた時期を特定できるものが少ない。
中でも福岡県立美術館が所有している作品はシリーズ中最も古いとされ、大正時代(1912-26)とされている。
同館の学芸員 高山百合は、その《蝋燭》から、2015年、ある事を発見した。LEDライトを当ててみたところ、キラキラする部分があったのである。
デジタルマイクロスコープを使って調査すると、確かに結晶状の物質が、炎の中でなく、周囲の陽炎の部分に塗り籠められていた。それは日本画材の「方解末」や「水晶末」だった。普通は膠等で溶いて使われるのだが、そうせず粒子状態のままで塗られていたのである。
何故そのような事をしたのか、高山はこう言った、
「小さい作品ですから、所有者は近い距離で絵を見る」事になる。そうした時、《蝋燭》の一部にキラッとした部分を見つけて、人は「ハッとする」のではないか。
野十郎はこうも言っていた、
「おれの絵の蝋燭はみんな生きとるんよ」。
野十郎の描いた蝋燭は、今も見る者を照らしているのである。人々の心に光を灯しているのである。
「絵馬」みたいなもの、と本人が言った意味も判るような気がする。
但し、《蝋燭》作品全部にこの仕掛けが施されている訳ではない。念のため付け加えておく。
番組演出 高田英俊
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