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2018年05月02日19:07

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文芸大聴講[演劇文化論]〜第3回 劇場空間近代化

4/26(木)、静岡文化芸術大学の授業[演劇文化論]の聴講第3回目。

担当 永井聡子
テーマ 劇場空間の近代化

資料は、本人執筆の『劇場の近代化〜帝国劇場・築地小劇場・東京宝塚劇場』(2014年思文閣出版発行)より。

1.舞台と観客をつなぐもの

「劇場」は社会の縮図であり、「舞台」は人生の縮図である。

社会が要求した人材・空間・作品・観客という4要素が、劇場空間の中でどのように関わり、非日常を創造するのか、時代が要求する関わり方がある。

帝国劇場が(1911/明治44)にできた事に対し、当時の人々はどう思っていたか?

それ以前に有楽座が「高等演芸場」として(1908/明治41)開場している。
有楽座の新しい試み。
プロセニアムアーチ。升席を取りやめ、桟敷,土間でなく椅子による3層客席/定員900人。オーケストラボックス,食堂設置。
概ね好評を得る。

小山内薫(のち、築地小劇場を開設)の有楽座に対する言葉、
「有楽座といふ”新しき器”が劇団に出来たことを喜ぶものは僕一人ではあるまい。新しい器はきつと新しい芝居が盛られる」。

建物というハードとその中身ソフトとの整合性が現代の劇場でも問題となっている。ハードばかりでは問題とする議論がある一方、建築空間が及ぼすソフトへの影響も重要な視点。
この点についても小山内は言う、
「”理想劇場建築反対論”という愚論を書いて、幾ら重箱をこしらえても、牡丹餅はひとりでに這入つては来ないというような皮肉を述べた。が、それは大きな誤りだつた。新しい家が一軒出来れば、新しい空気は来て、きつとその家を直ぐに充たす。新しい”芸術家の家”が出来れば住むべき家なくして何処かに隠れたる新しき芸術の天才はきつと出て来て、その家に住む」。
柔軟な意見に小山内は自論変更したようだ。

有楽座は新しい上演ジャンルの発表の場となり、主に新劇・舞踊の新作上演のメッカとなっていった。
これは「国の劇場」としての性格を背負わずに済んだ劇場としての成功となった。
悪弊であった喫煙・飲食をなくし、観客の集中度を高め、清潔な環境を作った。
欧風化されていながら帝国劇場とは違い、簡素な仕上げで、一層一般民衆の器として機能した。

歌舞伎の劇場は、風俗の乱れを指摘されていた。

のち、秋田雨雀の帝劇に対する言葉、
「帝劇は上品な娯楽作品としてのみ存在理由がある。劇場の洋風化ということが過去の平和の一つであつたし、将来もそれだけのこと」。

手厳しい発言だが、帝劇は「民衆の器」という問題を詰める事はできなかったけれども、新しい観劇制度を世に普及させたのは間違いない。

山崎楽堂はこう言う、
「今日までの日本の芝居小屋に見た事のない」立派で華麗な建物そのものが先の話題で、民衆は「一度は見て置こうというような好奇心に駆られ」てでかける。
「これ迄の劇場に附きもの」の「面倒な茶屋や出方の制度がないので手軽に見に行ける」という便宜も。「例えば靴や草履を穿いたものはすぐその儘入場して切符の番号の示す座敷へ符号の示すドアウェイによつて這入り得る」云々。

帝劇創立委員長であった渋沢栄一は、その誕生の10年後、こう反省と思いを述べている、
「外部の形式だけは進歩しても内容の進歩之に伴はず。併し、設備その他に於いて多少なりとも帝劇が日本の演劇改良に貢献した所はあると思ふ」。

有楽座は、1920(大正9)年、帝国劇場に合併され、1923(大正12)年、関東大震災によって焼失、再建される事はなかった。
一方帝劇は1924(大正13)年に早くも再建・再開された。

2.劇場空間近代化のポイント

建築家 後藤慶二は『日本劇場史』(1925/岩波書店発行)で次のような点を述べている。
 西洋において舞台と観客の区画が設けられ、全ては�ヽ霸鐫罎硫茲里瓦箸�、であり、日本(歌舞伎座を指している)は、これに反し��観客席の一隅に舞台を拵えているのであって、�7狆譴倭蹐涜臚散顱△任△襪�のようになっていた。

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これを作るには鉄骨の技術が必要。歌舞伎小屋には勿論プロセニアムアーチを設置できる訳もない。(現歌舞伎座にもない。)
本来芝居小屋なのであって、ロウソクの灯りを照明に、観客と舞台が極く近い関係となる必要があった。

��日本の小屋は左右非対称の空間。
プロセニアムアーチの劇場は左右対称の空間。均質化された空間とも言える。

日本の場合は、舞台と観客が近く、私的な興奮の場となる事が重要であった。
花道という日本独特の構造も舞台と客をつなぐ効能があり、単なる通路とは違う。役者と観客の視線が交流し、臨場感・一体感が増幅された。
また飲み食いも、私的興奮の世界にはあってしかるべきだった。風俗の問題も同様である。

��「大道具」から「舞台装置」「舞台美術」へ。
当時の装置は専ら洋画家が描いた。
額縁の中の装置。絵の中を覗き込むような発想。
舞台美術へのトライアルは、築地小劇場で行われた。

3.帝国劇場誕生の背景、歌舞伎劇場の風紀取り締まりの関係。

開国によって渡欧した政府高官や財界人が中心となり、我が国は都市計画の中で社会的に「負の場所から正の場所」へ転換が図られようとした。

1878(明治11)年、遊郭の近い猿若町から都心の京橋区新富町へ、新富座建設。

1888(明治21)年、東京市区改正条例交付。
市区改正計画の告示=近代都市計画(東京の都市計画)の始まりとされる。

1889(明治22)年、大日本帝国憲法公布。
同年、歌舞伎座開場。
〜〜
1908(明治41)年、有楽座開場。
1911(明治44)年、帝国劇場設立。

帝国劇場は国立ではないが、財界,文化界国を挙げて作られた。
社会変革の思い、エネルギーが籠められた。

帝劇がした事を列記すると、以下の通り、
・花道とオーケストラボックスの設置。
花道は必要に応じて取り外し可。
・帝劇付属技芸学校設置。
女優の養成。歌舞伎には女優はいなかった。
・茶屋制度の廃止。劇場内食堂の設置。
・帝劇歌劇部の設置。
・楽隊、背景部(洋画家による)の設置。
・貴賓席の設置。
 
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