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2016年05月02日22:47

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ルーシー・リー展/静岡市美術館

4/30(土)、静岡市美術館でルーシー・リー展を観た。
没後20年の回顧展という位置付けである。
ルーシー・リーは1902年ウィーンでユダヤ家系に生まれ、1938年ナチスから逃れてロンドンに移住、同地で1995年に一生を終えた。
 会期 4/9〜5/29
展覧会は昨年始まり、ここが各地を巡る全5回シリーズの最後になった。

前回は2010年に大規模なルーシー・リー展が開催された。
国立新美術館を含め全国6ヶ所を巡回した。
私は観にいく事ができなかったが、友人からその図録を借りて作品写真を隈なく観た。彼女の生涯についても一通り眺める事ができた。。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1765831306&owner_id=3341406

翌2011年、ハンス・コパー展が開催され、同じ静岡市美術館で、コパーとリーの共同制作品、そしてリー独自の作品20点に触れる事ができた。
それがリー作品に直接触れた最初だったが、彼女の陶磁器のフォルムと色と手法は、私の心に沁み入った、まるで乾いた地面に水が吸い込まれるように。

以下、その時のレポート。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1729606382&owner_id=3341406
その最後に、私は「コパーは乾き、リーは潤う」と書いた。
「コパーが抽象を極めていく」その求道的志向を「乾き」と表現し、対照的なリー製陶の人の琴線に共鳴する様に「潤う」と表現したのである。
今思うと、情感に任せるに過ぎた発言ではある。

今回の展示は約200点、コパー展の10倍の規模で、リーの一生の仕事を網羅している。そこには新発見の初期作品も3点含まれる。
それはウィーン工業美術学校時代の作品で、ここでリーは陶芸の道に進む決心をし、ミヒャエル・ポヴォルニー(1871-1954)に技術的な指導を受け、ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956)からは総合芸術として多くの事を学ぶ。
同校には聴講を含め、1921〜26年の間在籍した。年齢で言うと19〜24歳。その間、リーは、当時の生徒達の傾向(ライナルト・フランツに言わせれば「バロック調に過度に加飾されたものばかり」)とは全く異なるシンプルな造形を目指し、頭角を現していった。若い頃から、強い信念と意思の持ち主であった事が判る。
今回新発見の作品は、オーストリア応用美術・現代美術館の調査研究により、1922〜26年の制作である事が判明した。
金子賢治が言うようにまだ野暮ったさがあるが、その後のリーの素地も覗いて見える。

展覧会の構成は、以下のように到って簡素なもの、簡素過ぎると思う程だ。

�欺藉�〜ウィーン時代 1921-38年
�況狙�期〜ロンドン時代 1938-70年
�訓濬牢�〜1970-90年

�機�12点、�供�99点、�掘�83点。
特に�蕎呂侶狙�期は扱う時間が32年と長過ぎるし、もう少し分析的にやる方法もあるだろう。
まだ、フォルム、技術という即物的な観点のみに依拠していて、時代背景や人間リーの研究を掛け合わせる等して欲しいが、それにはもう少し時間が必要なのかもしれない。

このレポートでは、リーが生まれた頃からウィーン工業美術学校に在籍した時代に焦点を当ててみたい。

彼女が生を受けた1902年というと、まだ世紀末美術真っ盛りと言うべきで、クリムトが創設したウィーン分離派の目指した「純粋美術(絵画・彫刻等)と応用美術(工芸等)の区別をなくした総合芸術」を具現化する為、1903年にウィーン工房ができた。設立メンバーは前掲のヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザー(1868-1918)。
ウィーン工房は、建築,内装,家具,食器に至るものを一貫してデザイン・制作・販売する「総合芸術」の組織化を目指し、デザインする者と職人が連携、質の高い製品を世に提供した。
リーの父親は裕福な耳鼻咽喉科医師で、自宅にはウィーン工房の製品がたくさん取り入れられていた。

ウィーン工房の初期メンバーであるホフマンは、1899年からウィーン工業美術学校の教授を務めた。1909年から陶芸科を任されたミヒャエル・ポヴォルニーもウィーン工房に属していた。
ホフマンはリーを高く評価し、在学中に初めて轆轤挽きした作品を、1923年、同工房の代表作の1つでもあるデンマーク・ストックレー邸に展示したり、1925年の現代装飾美術・産業美術国際博覧会(「アールデコ」という言葉が初めて使われた為、パリ・アールデコ博覧会とも呼ばれた)に出品させたりした。

1914〜18年の第1次世界大戦ではオーストリアは敗戦国となり、650年続いたハプスブルク帝国は崩壊した。
ヨーロッパの美術界は、この未曽有の痛ましい時代を経験し、1930年頃迄新古典主義が時代の先端様式となる。
同じ動向が、建築,デザイン,造形教育に多大の影響を与えた「バウハウス」として現れる。その最初の教育機関が、1919年、ヴァルター・グロピウスによりワイマールに開校する。バウハウスは、その後、ヨーロッパ各地に展開する。
リーは、1926年に結婚、アパートの内装改築をバウハウスの若手建築家エルンスト・プリシュケに依頼した経緯があり、バウハウスの潮流はリーにとって身近なものだった。

しかし、大戦とリーの関係は、まだ深く研究されているようには見えない。

ポヴォルニーは当代の作陶技術だけでなく、古代の様々な器をリーに見せて、未だ解明できない技法の謎について語り合った。
リーはそれを自ら挑戦すべき課題と捉えるに至った。
1968年頃から始まった、複数のフォルムを組み合わせる「コンビネーション・ポット」の手法で作った美しい円筒花器の元型を、古代ギリシアやオリエントに見出す事ができる。
リーは、長い時間をかけて、熱心に課題と取り組んだ。

その姿勢が、12冊程にも及ぶ「釉薬ノート」という形でも現れている。
それは、1923年頃〜40年代迄断続的に続けられた。
ノートには、釉薬の調合がドイツ語に化学式を交えてびっしりと書き込まれている。多様な組み合わせの微妙な割合による変化、焼成温度による変化、色の出方、質感、等々、多大な労力と時間を要するプロセスである。
こうした事を自ら確認し記録に残す事で、リーは膨大なエレメントを我がものとしていった。
彼女の仕事がただ感性に任せたものでなく、極めて実証主義なものであった事が判る。

このノートは、後年になると、器の輪郭と使用された釉薬の記録になる。
リーは、注文があると、色もフォルムも過去の作例の完璧な再現をする事ができたそうだ。
自然釜では、焼いてどういうものが仕上がってくるか、その時の条件や環境で想像できない。「作品の出来は炎のみぞ知る」、それが作陶の妙味だという考え方があるが、リーは電気釜を使用、且つ「釉薬ノート」による膨大なデータの蓄積があったから、偶然に左右される事はなかったようだ。勿論新たな要件を加えるテストにおいては違うだろうが。
佐藤秀彦の言葉を借りれば、「リーが終生貫いたものは、最終的な仕上がり具合を、自分の思い通りにコントロールする強い意志にほかならない」。

このように初期のリーを見ていくと、リーをリーたらしめたものが見えてくる。
1つはウィーン工房〜ウィーン工業美術学校。敢えて個人名を加えればヨーゼフ・ホフマン。
2つ目は、新古典主義〜バウハウス。
3つ目は古代陶器。後のハンス・コパー。
そして、ロンドン移住後はバーナード・リーチ(1887-1979)、彼の影響を漏らす事はできない。

ライナルト・フランツは「ミニマリストの発想に基く造形表現として器を制作した」と書いているが、これには賛成できない。
確かにミニマルな要素はリーに認められるが、ミニマリズムは1960年代以降のアメリカを中心とした美術・音楽の動向であって、後世の思潮で括るのはヘンだ。


〈参考資料〉
ルーシー・リー展図録(2010年日本経済新聞社発行) 金子賢治,出川哲朗他著
ルーシー・リー展図録(2015年日本経済新聞社発行) 金子賢治,ライナルト・フランツ,佐藤秀彦他著
 
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