(続き)
団子坂の上り道はなかなかきつい。
それはこの日歩いた結構な距離から、私が個人的に噛み締めた思いではあるが、もう少し深い意味もあって、その辺りについてまず書いておこうと思う。
今、文京区立森鴎外記念館がある場所には、その昔、鴎外が30歳から60歳で死ぬ迄過ごした家が建っていた。彼はその家を「観潮楼」と呼んでいた。
その2階の欄干から東南方向を見れば当時は東京湾が見えた、というのをその名の由来と考えたいところだが、実は明治の頃には既に見えなかったらしい。
しかし、団子坂は「汐見坂」と呼ばれていた時代もあったそうだ。江戸初期迄の人々はここから東京の浜を見たであろう、そう想いを馳せて、鴎外はこの名を付けたのである。
恐らく江戸時代の人達も鷗外の時代の人達も、この汐見坂を、溜め息つきながら上った事だろう。
湾の埋め立ては当初江戸城の周囲に掘ったお堀の土を使ったようだし、その後は江戸のゴミを使用したようでもある。
考えてみれば、やっている事は今も同じで、東京の地盤が地震に弱いのは当然ではある。
ともかく、当初、城の東は直接海に面していたというのだから、江戸の町は江戸時代に相当な拡大を遂げたのである。
鴎外の観潮楼は第2次大戦下の1945年に空襲で焼けてなくなった。
記念館は、その場所の上に、地下2階,地上2階の鉄筋コンクリートで建てられ、生誕150年の年にオープンしたモダンな建物である。
これは帰りの事だが、北側の団子坂に面した正門でなく、東側の通用門から記念館を出ると、そこはまるで崖とでも言うような地形で、広々と下町の光景が眼下に拡がっていた。上野を越して浅草辺りも見る事ができた。
更にその向こうは視野も遮られるが、ちょうど2つの高層ビルの狭い隙間にまるで計算されたかの如くすっぽりとスカイツリーの姿を発見した時は、何やら感動を覚えた。観潮楼主の気持が少しく感じられたような気がしたのだ。
昨年私は、地元浜松の賀茂真淵記念館で「森鴎外の人と作品」という全5回の講座を聴いた。講師は杉本完治、大変に面白い内容だった。
好評だったからだろう、今年も続きの講座が開かれる事になった。今度は全6回である。
講師の杉本完治は実はここ鴎外記念館の会員でもあった。
さて、特別展の正式名は、「私がわたしであること〜森家の女性たち〜喜美子、志げ、茉莉、杏奴」と言う。
会期 4/9〜6/26
タイトルについて説明しなければいけないだろう。
鴎外と彼女達のごく基本的な関係は以下の通り。
・森鴎外(1862-1922)
1888年ドイツ留学から帰り、翌89年、海軍中将赤松則良の娘登志子(1871-1900)と結婚。長男於菟が生まれてすぐ、90年には離婚してしまった。
現在の上野水月ホテル鴎外荘は、登志子と暮した赤松家の持家である。ここで鴎外は『舞姫』(1890)等、ドイツ三部作を執筆した。
ちなみに、『舞姫』のモデルとされるドイツ女性が鴎外の後を追って来日したのは、結婚の直前1888年9〜10月の事だった。
・小金井喜美子(1870-1956)
鴎外の妹。1888年、日本解剖学会初代会長を務めた小金井良精と18歳で結婚。
実は、この小金井良精が、鴎外の後を追ってきたドイツ女性を説得し、帰国させたとも言われている。
・森志げ(1880-1936)
1902年鴎外と結婚。共に再婚。志げ21歳、鴎外40歳。
・森茉莉(1903-87)
鴎外と志げの長女。2度離婚し、24歳から生涯独身を通す。
・小堀杏奴(1909-98)
鴎外と志げの次女。画家小堀四郎と結婚。
生没年で判るように、今年は森志げ没後80年、小金井喜美子没後60年の記念年になる。
4人の写真は以下。但し、撮った時期も年齢もバラバラであるのは仕方ない。
彼女等は皆鷗外の研究書にしばしば登場する。
そういう意味で注目されてきた人達だが、彼女等も数々の文学作品を著わしている。
喜美子は兄鴎外と伴に優れた翻訳詩集を著し、歌文集から小説へと表現世界を拡げた。そして鴎外についての重要な歴史的記述を多々残した。
志げは、鴎外の家庭を守りながら、新しい時代の女性としての意識を内在させ、為に姑(峰)と対立する事も多く、悪妻との評価をしばしば受けた。
夫に勧められ、謂わば自己解放の手段として小説を書くようになり、独特の作品を成していく。
茉莉は50歳を過ぎてから唯美的小説を書きだし、三島由紀夫等から熱烈な支持を受け、泉鏡花賞他を取るに至り、女性のあり方が変化していく時代の中で文学の才能を開花させた。
茉莉の妹杏奴は、弟類とパリに留学した時は画家を目指していたが、帰国した年、25歳、明晰且つ繊細な文章で父の回想記を世に出した。
茉莉の極端な父への愛に比較すると、杏奴は深い愛情を持ちながら、悪妻と評価される母志げを守ろうともした。
バランスの取れた視線は、鴎外記念会顧問で津和野の鴎外記念館館長でもあるの山埼一穎によると、茉莉のディオニソス的性格に対し、杏奴は鴎外からアポロ的性格を受け継いだものだ、と。
同氏は、4人共、従来は「森鴎外という物語」の中の登場人物だったが、今や、それぞれが、「鴎外を離れて対照的に己の表現世界を確立し、
私がわたしである自立的世界を創出している」とも言っている。
それぞれの時代の波の中、厳しい自立の道ではあったが、その道程をこの稀有な展覧会は多くの歴史的資料を駆使して垣間見せてくれる。
満足して記念館の中庭に出てみると、係員が言っていた通り、大きな平たい石があった。
鴎外の写真で、幸田露伴と齋藤緑雨「三人冗語」の仲間で撮ったものがあるが、鴎外が座っている石がこれである。
着物ではないが、私も悦に入って座ってみた。座り心地の好い石だった。
来たのとは違う急な石段を下り、東京という大都会にこんな場所が残されているのかと驚くような小路を覗きながら、不忍通り迄出た。
消防車も入れないような路地ばかりで、火事にでもなったら、こんな江戸風情はひとたまりもなく消えてなくなってしまうだろう。
そんな小道の合間から、スカイツリーの姿が時折り顔を出す。
東京というのは、最新のものと古えから変わらぬ旧いものが織り混ざった実に不可思議な所だ。
地下鉄千駄木駅前に立つと、地下へ吸い込まれる一陣の風によって、私の東京小旅行も儚い夢のように終わりを告げたのである。
感じるままの徒な文章を最後迄お読み頂きまして、ありがとうございました。
お礼申し上げます。
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