8/11(火/祝)、横浜みなとみらいホールでTBSK管弦楽団の定期演奏会を聴いたあと、横浜美術館に寄った。
台風15号が近づいていて心配ではあったが、開催中のコレクション展が魅力的で、少しの時間観ていく事とした。「マリー・アントワネット・スタイル」展は混み合っているようだったが、コレクション展のほうはたいした事はない。
横浜美術館は、19世紀後半から現代迄の作品約15,000点を所蔵している。
コレクション展は、会期ごとに異なる切り口とテーマで収蔵品の魅力を発信している。
今回は「海をこえてゆく彼女」と題し、20世紀前後以降、国境を越えて活動した女性に光を当てている。
・会期 ’26.8.1〜’27.2.11
美術を学び、創作し、価値づけるシステムは、長く男性中心に構築されてきたため、女性が活躍する迄の道程は平坦でなかった。それでも国境を行き来した数少ない女性作家の作品に目を向けると、そこには異なる風土や文化への新鮮な驚きが満ち溢れている。
第2次大戦後になると、海外を拠点に制作し作品を発表する女性アーティスト達が登場し、彼女らは大きく活躍の場を拡げた。
今回のコレクション展では時代によってしなやかにふるまいを変えつつ、世界を舞台に逞しく生きた女性の創作を辿る。
グローバリゼーションのうねりの中で開花した彼女達の作品、そこに宿る生命力に注目する。
「海をこえてゆく彼女」
◆1.「家族とともに」
まず女性洋画家のパイオニア3人に着目し、彼女達がどのように美術の素養を身に付けたかを振り返ってみる。
幕末明治の横浜では、洋画家の一派「五姓田(ごせだ)派」が西洋人の肖像画を描き、評判となった。
その初代・五姓田芳柳(ほうりゅう)の長女が渡辺幽香(ゆうこう/1856-1942)。五姓田を代表する画家となった兄・義松(よしまつ)は、1880年に渡仏し油彩技法を身に付けた。幽香自身は海外で学んではいないが、父や兄に本格的技法を教わり、1893年には彼女の作品《幼児図》がシカゴ万国博覧会へ出品された。
・渡辺幽香《白衣婦人像(仮題)》(1883)絹本着色
日本初の美術教育機関となった工部美術学校の1期生として洋画を学んだのが、岡村政子(1858-1936)。
彼女は夫と伴に開業した石版印刷会社信陽堂において、石版画家として若い女性を描き、人気を博した。
・岡村政子《小町姫》(1889)リトグラフ
吉田ふじを(1887-1987)は、文字通り海を越えた女性画家の第一世代。彼女は義兄・吉田博に洋画を学び、1903年に一緒に欧米へ行き、旅先の風景を水彩で描きました。博とふじをは、のち夫婦となり、その子孫も世代を超えて芸術家として活躍した。
・吉田ふじを《伊国ヴェニス市 ドーヂの宮殿》(1906)水彩
◆2.「交差するまなざし」
ここでは、異なる文化を往来した作家が、「他者」として異国を描いた作品を紹介している。
アメリカ出身のヘレン・ハイド(1868-1919)は、パリで日本文化の流行に接し、版画に興味を持つ。彼女は1899年に来日、日本画や木版画を学んだ。
・ヘレン・ハイド《かたこと》(1908)多色木版
あかんぼうをあやす若い母親。左の畳の上にはおもちゃが置かれている。親子の情愛は西も東も同じ。
アメリカでデザインを学んだバーサ・ラム(1869-1954)も、1903年以降何度も日本を訪れ、木版画に親しんだ。
・バーサ・ラム《人力車》(1918)多色木版
夜陰に動く人力車の提灯。如何にも和風好み。アメリカ人にこれがよく表現できるものだと感心する。
オーストリア生まれのエマ・ボーマンは、独学で身につけた木版画で旅先の風景を描いた。家族の日本への転居がきっかけで、戦後は東京近郊の風景も作品にした。
彼女達は皆日本の木版画を学び、新鮮な眼差しでアジアの風俗や風景を捉えているが、色使いや造形感覚にはそれぞれの文化的背景に由来する独自性も感じさせる。
ずっと後年になるが、フィリピン生まれのマリア・ファーラ(1988- )は、日本で幼少期を過ごしたのち、15歳から渡英し美術を学んだ。
・マリア・ファーラ《ルームサービス》(2021)油彩/3点組
フィリピン人の母が異国で客室係として働く姿に想を得て描いた。
呼び出しておいて、客はハイヒールの靴やイヤリングを残して不在。サスペンスを感じさせもする。
文化の複雑な重なりから生まれた珍しい作品。
POP風の一様に塗りつぶす面ペイント。
(続く)
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