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2026年08月04日13:00

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ルーシー・リー展/庭園美術館��

(続き)

◆第2章「ロンドンでの出会い」
戦争の影が濃くなった1938年、ルーシー・リーは実業家の夫ハンス・リーと伴にナチスの迫害を逃れロンドンに渡った。(ハンス・リーとは亡命の2年後に離婚。)
翌年、ロンドン・ハイドパーク近くのアルビオン・ミューズに工房兼住居を定め、新たな環境での生活と創作を始める。
この頃、英国陶芸界で中心的役割を担っていたのはバーナード・リーチ(1887-1979)である。彼は香港で生まれ幼少期を日本に過ごし、日本への愛着と理解が深く、のち民藝運動とも深く関わった。
リーはリーチに自作を見てもらっている。リーチと彼をリーダーとする英国のスタジオ・ポタリーの作家達は、当時東洋陶磁に理想を置き、専ら重厚で安定感のある作品を手がけていた。ウィーンで10年以上の実績あるリーの仕事は、英国では殆ど知られておらず、彼女の薄くエレガントな作品をリーチは「薄過ぎて陶器らしくない。人間味が少ない」と酷評した。

下はリーチの指導を受けて形態や釉薬表現を模索していた頃のリー作品。
・蓋碗(1940)
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厚手でぼってりした形、リーの苦悩が見えるようだ。
それでも、リーチとの交流をリーは生涯続け、彼を通して柳宗悦(1889-1961)や濱田庄司(1894-1978)とも知遇を得た。

第2次大戦は激しさを増し、高級な陶器は需要がなくなり、リーは器の制作を断念、陶製ボタンを制作して生計を立てていく事とした。
色彩もフォルムもバリエーション豊かなリーのボタンは人気を博し、終戦後も注文が絶えなかった。

・ボタン(1940-50年代)
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ボタン作りでは、様々な色合いを生み出すべく、リーは釉薬技法を深める事がでてきた。

1946年、彫刻家志望のユダヤ系ドイツ人青年ハンス・コパー(1920-81)がリーのボタン作りの助手として工房に加わった。この時コパー26歳、リー44歳。
写真は1940年代、アルビオン・ミューズの工房前にて。
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左よりコパー、リー、そしてボタン制作のスタッフ達。

コパーは陶芸と無関係だったが、リーの工房で興味を持ち、ろくろも短期間で上達した。
やがてコパーはリーの作陶のアシスタントと言える迄になり、リーがボタンから陶器制作に戻る後押しをした。
コパーは作陶手順の部分々々を次第に習得し、やがて2人は共同制作をするようになる。

ルーシー・リー&ハンス・コパー
・コーヒーセット(1955年頃)
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濃い茶色は二酸化マンガンを使った「マンガン釉」による。
器の底裏には2人のイニシャル(LRとHK)が刻まれている。

独立したコパーの作品も第2章は14点程採りあげている。その後、コパーが目指したものについては、�,遼粗�近くに掲げた「ハンス・コパー展」のレポートを参考にして頂けたらありがたい。

リーは釉薬だけでなく加飾表現についても研究を深める。例えば1940年代後半に博物館で目にした彫模様のある陶磁器にインスピレーションを受け、リーなりの繊細な「掻き落とし」を完成させていく。
掻き落とし技法については、上のコパーと共同制作のコーヒーセットにも見る事ができる。
一般的には素焼きのあとにするものだが、リーは表面が固くなってしまう事を嫌って素焼きをせず、釉(うわぐすり)を塗った表面が乾いたところで、針金のようなものを使いフリーハンドでその釉をかじりとっていく工程をあみだした。焼成はそのあとに行う。

・大鉢(1963)
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全面にピンク系の「溶岩釉」をたっぷりかけて焼成した大鉢。分厚い釉薬には大小の穴(ピンホール)が開き、茶色の下地を覘かせている。
溶岩釉はリー独自の釉薬で、釉薬に混ぜ込んだ有機物が焼成で燃え、大小の気泡となって表面に穴を開ける。表面が溶岩のような質感になる事からこう名付けた。
ピンホールは一般的には焼成前の行程の失敗で起きるものだが、リーは意識してこれをやっている。
背景に旧朝香宮邸2階、当時としては最新設備のバスルームが見える。

・壺(1965頃)
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マンガン釉を塗ったあと、首と口の内外に掻き落としをして見どころを作っている。
素地の白色を一部に残し、青色(写真ではよく見えないが)の「象嵌」を施して、重たい色調の中にアクセントと軽さをプラスしている。
象嵌は、素地を刀や針で彫り、その窪みに素地とは異なる顔料を埋め込む事で文様を作る技法。
リーは、青銅器時代の土器に骨による引っかき線がある事に着想を得て、掻き落としと象嵌の技法をあみ出した。
リーの線はいつもフリーハンドで、繊細で温かみがある。

・茶釉線文鉢(1960-70年代頃)
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高台上に広い鉢。
事前に、ろくろを使って内側の素地に窪み線を入れ、マンガン釉にて全体を茶色。その後表面を薄く削り取ると、先に入れておいた窪み線に茶色が残る。これがリーの象嵌手法の一つである。
機械的でない線の趣きがかえって心地好い。

◆第3章「東洋との出会い」
前章で触れた通り、ルーシー・リーがイギリスへ渡った時、陶芸界の中心にいたのはバーナード・リーチで、英国では日本、そして中国・朝鮮の陶磁器に範を求める潮流があった。リーもそれに関心が持ったのは間違いない。日本にリーを広めたデザイナーの三宅一生は、彼女の自宅を訪れた時、李朝の壺が飾ってあるのを見たとエッセイで書いている。
1952年には、世界中の工芸家が注目するダーティントン国際工芸家会議が行われた。陶芸と染織を中心としたこの会議にリーも参加、日本からは柳宗悦と濱田庄司が招聘され、柳の講演と濱田の実演があった。
リーと彼らとの出会いは、彼女の自宅に彼らを宿泊させる程の交友関係につながり、後年、リー、濱田、バーナードの妻ジャネット・リーチと「3人展」を開催する迄になった。

バーナード・リーチ著の『陶芸家作品選集』(1951刊)には、日本,中国,ギリシアなどからリーチが選んだ60点の陶磁器が掲載されている。
中国宋代の陶磁器2点は大英博物館に展示されており、スケッチして細かな形状分析を行っている。
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右図、北宋代の定窯(ていよう)の花器(「鶴首瓶(かくしゅへい)」、つまり鶴が首を伸ばしたような姿の瓶という意味)など、リーに大きな影響を与えているだろう。
好例として、下の写真手前の作品、花生(1960)。
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定窯の花器よりも遥かに首が細く長く、口が胴部より広がっていて、一見すると不安定な印象を与えるが、胴部の丸みと艶のある釉薬は温かく柔らかなイメージに包まれ、気品ある姿で佇んでいる。
写真奥の作品は、白釉鎬(しのぎ)文花瓶(1976)。

(続く)
 
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