mixiユーザー(id:3341406)

2026年08月03日22:27

95 view

ルーシー・リー展/庭園美術館��

7/30(木)、上京2日目、東京都庭園美術館で開催されているルーシー・リー展を観る。
副題は「東西をつなぐ優美のうつわ」となっている。

フォト

・会期 7/4~9/13
このあと、金沢の国立工芸館、三重県立美術館、大阪のあべのハルカス美術館に巡回する。

ルーシー・リー(1902-95)作品の実物を観たのは2011年だったと思う。静岡市美術館で行われたハンス・コパー展で、彼の師であるリーの陶器が20点ばかり展示されていた。その色と形に、私は殆ど恋愛に近いものを感じたのだった。

・参「ハンス・コパー展」(2011.5.30記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1729606382&owner_id=3341406&from=list_diary_search
あとにリンクを貼付する2016年のレポートでは「彼女の陶磁器のフォルムと色と手法は、私の心に沁み入った、まるで乾いた地面に水が吸い込まれるように」と書いている。

ハンス・コパー展の前年2010年には没後15年記念として規模の大きな展覧会(リー以外を含む総展示点数約250)があり、国立新美術館を始めとして全国6ヶ所を巡回したのだが、私はたぶんリーを名前すら知らなかったので観に行っていない。残念な事をした。友人から図録を貸してもらってレポートだけは書いたのだが…

・参「ルーシー・リー回顧展図録から」(2011.8.22記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1765831306&owner_id=3341406&from=list_diary_search

その後、2015年には没後20年展が行われ、私は巡回展を静岡市美術館で観る事ができた。リー以外を含む総展示約200点。リーの作陶を時代順に3期に分けて展示・解説していた。ようやく本格的な逢瀬を果たした思いであった。

・参「ルーシー・リー展」(2016.5.2記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952388034&owner_id=3341406&from=list_diary_search

さて、今回の庭園美術館のリー展、主催者の意図に沿いながら、私の感想も挟んでいきたい。

ルーシー・リー(1902-95)は、それ以前も小規模なものはあったが、1989年、三宅一生の企画による草月会館展で日本に本格的に紹介され、以降、2010年,2015年の大規模回顧展を経て、人気は急激に高まった。本展では、私達を魅了してやまないリー作品、その源泉は何か、彼女が出会った人、もの、場所、それに時代背景を交えて紐解いていく。

ユダヤ人の両親のもと、ウィーンで生まれたルーシー・リーは、1922年に入学したウィーン工芸美術学校でろくろに出逢い魅了され、陶芸の道へと入った。
作家としての地位を確立しつつあった時、ナチスドイツの覇権がオーストリアへ及び、1938年イギリスへ亡命、作陶の場をロンドンへ移す。
彼女がウィーンとロンドンで美術のエッセンスを吸収していった20世紀初頭は、ヨーロッパで東洋の焼き物への関心が高まっていた時期でもある。特に、バーナード・リーチらは、日本や中国の焼き物に大きな影響を受けて制作していた。
洋の東西が入り混じる背景で、彼女が、何を学び、受け入れたのか。洗練された佇まいの作品の内にある複層的な構造を知る事で、彼女の信念に触れる機会としたい。これが副題の意味するところだ。

加えて、他でもない庭園美術館でルーシー・リー展を開催する意味がある。
東京都庭園美術館は、1933年に朝香宮家の自邸として建てられたアール・デコ建築。
「アール・デコ」という名称は、1925年にパリで開催された現代装飾美術・産業美術国際博覧会に由来する。
パリに2年4ヶ月住んだ朝香宮鳩彦王と允子妃は同博覧会を訪れ、その潮流を日本で実現すべく、フランスのデザイナーらを招聘し自邸の設計や内部装飾に関わらせた。同博覧会で、オーストリア館は日本館に隣接していた。
博覧会のオーストリア館では、当時ウィーン工芸美術学校の学生であったルーシー・リーが学友と伴に制作した等身大の陶製人物像も展示されていた。
このパビリオンの設計・展示に携わったヨーゼフ・ホフマンは工芸美術学校の教授で、「ウィーン工房」を率いた中心人物でもある。
朝香宮夫妻は、日常生活のあらゆる領域に美を見出すという博覧会の理念に触れ、美術と産業が融合したデザインを住まいに取り入れる事とした。現庭園美術館本館内部には、博覧会に参加したアンリ・ラパンやルネ・ラリックらによる装飾が随所に見られる。
リーも、前述の通り、ヨーロッパの時代潮流の下、東洋からの影響を受けつつ独自の造形を追求した。
旧朝香宮邸である庭園美術館の中で、リーの作品がどのように見えるか、リーの器と旧朝香宮邸の建築が織りなす対話には興味をそそられる。

本展は4つの章で構成されている。
・第1章「ウィーンに生まれて」 展示点数16点
・第2章「ロンドンでの出会い」 53点
・第3章「東洋との出会い」   23点
・第4章「自らのスタイルへ~陶芸家ルーシー・リー」 31点

全展示123、内69点がリー。
出品者で点数が多いのは、国立工芸館45点、京都国立近代美術館35、井内コレクション19。
「国立工芸館」というのは、元千代田区北の丸公園にあった東京国立近代美術館の工芸館で、金沢市に移転し2020年にオープンした。
「井内コレクション」は歯科医師井内功(1911–1992)の私的蒐集で、今年4月に国立西洋美術館で観た「北斎 冨嶽三十六景」展もその一部である。今回展示された井内コレクションは全て「国立工芸館寄託」となっている。

◆第1章「ウィーンに生まれて」
リーはユダヤ人家庭に1902年に生まれた。ルーシー・リーは英国亡命後の名前。オーストリア時代、結婚以前はルツィエ・ゴンペルツである。
彼女はギムナジウムでデッサン力を認められ美術系への進学を決意、ウィーン工芸美術学校に入学。ミヒャエル・ポヴォルニーの下で陶芸を学ぶ。
当時のヨーロッパでは、19世紀末にイギリスで起こった「アーツ・アンド・クラフツ運動」が注目を浴び、新しい美術様式が次々勃興していく。オーストリアでは1897年に「ウィーン分離派」結成。そして1903年には「ウィーン工房」誕生、”総合芸術”なるものを標榜し、絵画や彫刻という”純粋美術”だけでなく、日用品を通して高い美意識を発揮しようとする潮流があった。ゴンペルツ家もインテリアにウィーン工房の製品を設えた。
ここではウィーン工房創設者のひとり、建築家でデザイナーのヨーゼフ・ホフマンの作品や、機能とデザインについて革新的な実験と教育を行っていたバウハウスの作品、そして、そうした時代の空気を吸収しながら制作を始めたリーの初期作品に注目している。

上野リチ・リックス×ヨーゼフ・ホフマン
リキュール・グラス(1917/1929)
フォト

ホフマンのガラス造形に後年上野リチ・リックスが装飾を施したもの。
フェリーツェ・リックス(愛称リチ/1893-1967)はウィーン工房の一員、特にテキスタイルデザインの分野で活躍。彼女のプリント図案は「リックス文様」と呼ばれて高評価を得た。
リチは1925年、ホフマンの建築事務所にいた日本人建築家上野伊三郎と結婚、京都に移って上野建築事務所を開設。彼女はその美術工芸部主任に就く。のち京都市染織試験場の図案部技術嘱託、更に京都市立美術学校工芸科図案専攻の教師に。晩年は、夫妻を中心にインターナショナルデザイン研究所を創設。特色ある教育を行って有能な若い人材を多数輩出した。
上野伊三郎とリチの作品・資料は京都国立近代美術館に寄贈され、2009年には「上野伊三郎+リチコレクション展」が開催された。
リチも、リー同様、女性のハンデを乗り越え、東西の文化をつなぐ役割を果たしたのである。

・ルーシー・リー 鉢(1926頃)
フォト

大小の半円の稜線を交互に組み合わせる花のような器形は数点存在する。ウィーン工芸美術学校を卒業した頃の作品で、ホフマンのデザインに通ずるとの指摘もある。
数点の釉調に規則性はなく、実験的な性格を窺わせる。のちに開花するリーの多彩な釉薬表現の萌芽と見るべきだろう。
リーは在学中にミヒャエル・ポヴォルニーから作陶の基本、殊に釉薬について学んだ。
鉢の高台内には「L.R.G. WEIN」と署名がある。
展示の背後に、旧朝香宮邸時代の作り付け設備のアール・デコ風紋様が見える事を付け加えておく。

フォト

ウィーン時代(1930年代)、ろくろに向かって制作するリー。
写真を掲示した庭園美術館 旧朝香宮邸大客室の壁の美しい文様は、どちらかといえばアール・デコ以前のアール・ヌーヴォー風だ。

(続く)
 
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2026年08月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031