5/10(日)中日新聞サンデー版に武満徹(1930-96)没後30年の特集が掲載された。
記事制作 河野春気(中日新聞サンデー版編集部)
記事のスクラップを凡そ時系列で並べ直してみた。
1945年、15歳、終戦直後の勤労動員先でシャンソン《聞かせてよ、愛の言葉を》(作詞作曲ジャン・ルノワール,歌リュシエンヌ・ボワイエ)を聴く。「こんな素晴らしい音楽がこの世にあったのか」。
武満が音楽を志すきっかけとなった体験。
1950年、ピアノのための《二つのレント》でデビュー。
作曲技法はほぼ独学。音楽評論家山根銀二、「音楽以前」と酷評。
1951年、前衛芸術家集団「実験工房」の結成に加わる。
リーダーで詩人の瀧口修造と交流。
現実にある音を用いた「ミュージック・コンクレート」手法も試みる。
1956年公開の映画『狂った果実』、初めて映画音楽を作曲。
生涯で約100本の映画音楽を手がけた。
歌作曲。
1961年《〇と△の歌》,1962年《小さな空》,1982年《翼》、作詞作曲。
1965年《死んだ男の残したものは》作詞谷川俊太郎。
校歌作曲。
1963年、上野西小(三重県伊賀市), 四日市南高(同四日市市)、1983年、久米川東小(東京都東村山市)。
後者2曲は作詞谷川俊太郎。
1965年、長野県北佐久郡御代田(みよた)町の「普賢山落」の一部を写真家大辻清司から譲り受け、以後仕事場とした。
1967年、ニューヨーク・フィル創立125年記念の委嘱により、尺八と琵琶とオーケストラのための《ノヴェンバー・ステップス》作曲。
同年、小澤征爾/同オーケストラで初演。武満の代表作となった。
1970年、大阪万博の日本鉄鋼連盟「鉄鋼館」の音楽監督を務める。
「スペースシアター」ホールは1,008個のスピーカーを使い、立体的音響空間を作り出した。
(続く)
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