今日のちょっと物思い
恥辱(honte)は、屈辱(humiliation)とは違う。恥辱は、どこまでも「われわれの」恥辱である。自分がそうであるところのものに対する恥辱である。屈辱はそうではない。たとえば「第九条は押し付け憲法だ!日本人がこうなっているのは中国人のせいだ!」とか言う人たちが感じているのが「屈辱」です。それはいつも「誰か」のせいなんです。
屈辱を感じている人たちは、自分を変える気がない。自らを、自らの世界を変革しようとする。その動機となるのは常に「恥辱」である。屈辱は何も変えません。それが生むのは、弱者への暴力と差別だけです。
この震災、この災厄、この事態は、どこまでもわれわれの、われわれの恥辱である。われわれの手も汚されているのだということです。想定外という科白が言い訳にすぎなくて、すでにこの程度の地震は起き、起きたらどうなるかということは、ちゃんと調べて資料になっていたわけです。原発がいかに危険か、原発関連の財界、官僚、政治というものが、いかに欺瞞と癒着にまみれたものであってかについても、ずっと研究してきた人たちがいる。資料もあった、本もあった、でもわれわれはそれを知ろうともしなかった。私も含めて。
この国がこういう国だったということを、うっすら皆さんもご存知だったでしょう。でも何もしなかった。だからこの事態は、われわれ自身の責任でもあるんです。だから、っわれわれが変わらなければ何も変わらない。誰かがうまくやってくれるだろう、誰かが変えてくれるだろう、という根性では捨てなくてはならない。いつまでもあ−んしていればお祖母ちゃんがチョコレイトを口に放り込んでくれると思っていいのは、幼児だけです。デモは直訴じゃない。そんな助けてくれる、訴えれば印籠でも出してくれる「お上」あんで存在しない。そんな「誰か」なんていない。われわれがわれわれを、変えなければならない。われわれの、この世界を。
そしてまた、ここではっきりさせておかなくてはならないことがある。
この恥辱の名において、この災厄はわれわれの責任でもある。それはその通り。だが、このことと、この災厄を招いた、そこに加担した人びとの責任を問う、ということは、矛盾しません。責任は追及しなくてはなりません。
なぜなら、こういう無能と無責任を許してしまったわれわれを変えるということこそが、われわれがわれわれの責任をとるということだからです。ならば、われわれの一員である彼らに、われわれの名のもとに、恥辱の名のもとに、責任をとってもらわなくてはならない。逃がしてはいけない。
(中略)
もう一回言います。責任は問われなければならない。復興が先だなんて言ってる人は、誰かさんの片棒を担いでいるだけです。なぜなら、その復興という作業において、責任の所在がどんどん曖昧になっていくに決まっているからです。
(以下略)
(佐々木中『変革へ、この熾烈なる無力を』)
仝: selected lectures 2009-2014 (河出文庫)所収
ログインしてコメントを確認・投稿する