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2026年09月25日11:00

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『問題の女 本荘幽蘭伝』 平山亜佐子著

平山亜佐子著『問題の女 本荘幽蘭(ほんじょうゆうらん)伝』を読む。

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1879(明治12)年久留米市生まれ、本名は本荘久代。父は旧久留米藩士で、のちに大阪商業会議所の理事や弁護士を務めた。
15歳になると、姉の代わりに婿をとる事を父から指示され、自分の意志とは関係なく、とっかえひっかえ4人の婚約者が登場。そして5人目の男性に犯されて妊娠、男は堕胎を強要、結局早産で赤ん坊は死ぬ。
久代は精神を病んで巣鴨病院に入院した。

退院後、明治女学校に入学。キリスト教教育を受ける。
学費に窮し、学校の受付や賄いの手伝いなどしつつ、自作文の朗読をしたり、演説をしたり、才能を開花させる。この頃から「幽蘭」と名乗るようになった。

卒業後、久留米で医師と結婚、第2子出産。
過去の出来事を告白すると、夫は慰めてはくれたが、幽蘭は身を引く決心をし、離縁、子供を背負って上京した。
東京では救世軍の兵士、新聞記者など短い期間で職を転々。幽蘭は日本で初の女性記者と自認している。
その後も転職と男性との交際を繰り返す。

起業・就職は分かっているだけでも、上野の東京勧業博覧会前の喫茶「幽蘭軒」オーナー、ミルクホールオーナー、辻占いの豆売り、在日欧米人の日本語教師、看護見習い、女優、活動弁士、講談師、浪花節語り、娼妓見習い、外妾(らしゃめん)、娘子軍(からゆきさん)、果ては尼僧などなど。
“オーナー”と言っても、男性関係を頼って金を借り回る操業だった。
正規か否かは定かでないが、夫は50人近く、120人以上の男性と交際、転職50回以上、マスコミからは、「元祖モダンガール」「才気煥発、奇才縦横」と評されるかと思えば、「人間の屑」「放縦、度のない好色」などと罵倒されもした。

今でこそ、幽蘭の名を知る人はまずないが、100年前、1907(明治40)年前後では、知らない人がない程の有名人だった。
男性遍歴が後世に伝わるのは、彼女が肌身離さず持っていた手帳(自身「錦蘭帳」と呼んでいた)のおかげで、それには関係した男性の名前を全て記録していた。新聞社社主、記者、俳優、小説家、芝居の座長、やくざ、国士、外国人商社員、左右の社会活動家、キリスト教・仏教・神道などの宗教家、幅の広い事。
自然、活動の場も転々とし、日本国内は言う迄もなく、台湾、朝鮮、中国、満蒙、東南アジアへと展開していく。

こうした動向が分かるのは、自身「問題の断髪美人」と称し、新聞社や雑誌社にネタを売り込んでいたからだ。
軍の侵攻のあとを追い、日本のマスコミも大陸へ出ていき、幽蘭のような話題は、現地の軍・居留者達に大いにウケたのである。
大陸でも、政財界や満鉄関係者、大陸浪人に無心を重ね、ホテルを開店し、劇団をまとめ巡回したりした。
その足跡を追うと、幽蘭は、戦争協力と言えるような活動に踏み込んでいたり、諜報活動にも手を染めていた可能性が見えてくる、と、平山は言っている。但し、証拠と言える迄のものは残っていない。

戦争末期から戦後の動向は次第に不透明になっていくが、幽蘭は、経路は分からないものの何とか日本に戻ってきた。
雑誌「キャピタル」1950(昭和25)年4/15号の「奇人傳」では、インタビューと伴に幽蘭71歳の写真が掲載された。平山が調べ得た中で最後の写真だとの事。
雑誌「講談研究」1953(昭和28)年の9月号への寄稿では、講談で日本各地を廻った事、そして「目下暑中休暇なので海辺めぐりをして涼を呼んで居ます。七十五(註:数え)ですが無病息災(云々)」と言っている。

マスコミに出た記事はこれが最後のようで、その後の幽蘭は、没年も含め情報がない。

男尊女卑、古い倫理観に束縛された世の中でこそ幽蘭の行動は波乱に満ちて話題になったが、モラルもジェンダーの考え方も変化した今、時代の枠に収まらない幽蘭はどう見えるであろうか。
平山はそこに興味を持って、外地発行の新聞等迄、資料を丹念に辿り本評伝を書いた。
全340ページ余の大著で、各ページ下部にセットした注も充実している。


著者 平山亜佐子
発行 2021年10月、平凡社
 
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