5/31(日)、シネマイーラ浜松で『ハムネット』を観る。
映画は、ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)の名作戯曲『ハムレット』(1601頃)が生まれるに至った経緯を、彼の妻の視点から描いている。
同名の原作(2020)はマギー・オファーレル(1972- )の独創的なフィクションで、彼女は共同脚本としても映画に参画している。
大文豪シェイクスピアの妻アン(アグネス)・ハサウェイ(1555/56-1623)について、その史実は殆ど知られておらず、多くの人々の想像をかきたて、諸説が生まれる遠因になっている。
冒頭のテロップで、16~17世紀の記録文書では「ハムネット」と「ハムレット」は同じ名前でどちらを使ってもよかった、と流れる。
1580年代のイングランド、ロンドンからは離れた小村。ウィルはラテン語の家庭教師で糊口をしのいでいる。映画の中でシェイクスピアと彼が呼ばれる事はない。
父は皮手袋の職人で、家業を手伝わず、詩作などにふける息子ウィルを役立たずと見なし、時には暴力をふるう事さえあった。
ウィルは、ある日、教室の窓からタカが飛ぶのを見かけた。タカはある女性の手に舞い戻って餌をついばんだ。
ウィルは興味を持って彼女に近づいた。
彼女の名はアグネス。森を愛し、タカをてなずけ、薬草の知識を有する神秘的な女性で、家よりも森にいる事の方が多い。日に焼け、爪には土がこびりついている女を、村人は、変わり者として「魔女の娘」と揶揄するが、ウィルは神秘的な魅力を感じた。
彼女に物語を乞われ、ウィルは黄泉の国へ亡き妻を探しに行くオルフェウスの話を語って聴かせる。
2人は急速に接近し、アグネスは妊娠した事が分かる。両家の反対を押し切って結婚。(史実では1582年、ウィリアム18歳、アン26歳。)
彼女はいつもの森の大木の下、独りで長女スザンナ(1583-1649)を産む。
ウィルは詩や戯曲作りに励むが、なかなか巧くいかず、悩む日々。ロンドンに出る事を考えるようになり、アグネスも承知する。
ウィルが夢を胸に抱きロンドンに向かったあと、アグネスはまた妊娠している事が分かる。
出産が迫る日、大雨で村の近くの川が氾濫。それでもアグネスは件の森に向かおうとするが、ウィルの母メアリーに止められ、不安に慄き喚きながら家の中で双子を出産する。生まれたのがハムネット(1585-96)とジュディス(1585-1662)の兄妹。
夫はたまにしかロンドンから帰らないが、アグネスは子育てに奮闘する。
1596年、流行性の疫病が村を襲う。ペストか?
生まれつき体の弱かったジュディスが罹患。アグネスは森の薬草から薬を作り、彼女に飲ませ、汗を拭い、必死で看病するが病状に改善の兆は見えない。
双子の兄ハムネットは、我が身の半身であるジュディスの様態に心を痛め、一夜彼女のベッドの中で添い寝し、死神を欺いてやろうとたくらむ。
翌朝、アグネスはジュディスのベッドにハムネットがいる事に驚く。
ジュディスは熱が下がり回復の兆候が現れたが、今度はハムネットが苦しみ始める。11歳の少年の儚い身体はたちまち蝕まれてしまう。
ウィルは手紙でそれを知りロンドンから馬を走らせるが、結局死に目に遭えなかった。
ウィルの大きなショック、しかしアグネスは夫を罵る事しかできない。
ウィルは、(公演スケジュールが迫ってでもいるのか)ロンドンへ戻っていく。夫婦の間には亀裂が入って時が過ぎていく。
ある日、アグネスの弟バーソロミューが、ロンドンでウィルの演劇『ハムレット』の公演がある事を知り、姉に知らせる。
死んだ息子の名を芝居に使っている事にいい気持がしなかったアグネスだが、弟に勧められて一緒にロンドンへ観に行く事とする。
映画ではその名が語られる事はないが、史上有名な「グローブ座」である。
多くの客が、その入り口から入っていく。手にしたチラシには、戯曲制作がウィルであると書かれている。
弟に殺された先王の亡霊が夜現れ、ハムレット王子に事件の真実を語り、復讐を命ずる。
この先王役を原作者でもあるウィルが演じている。
耳から盛られた毒のせいで全身かさぶたとなった父の亡霊は、青白い顔をし、息子ハムレットに切実な思いを籠めて言う、「さらば、さらば、父を忘れるな」。
これは、先王の言葉でありながら、父ウィルが、生きている時には告げられなかった息子ハムネットへの最後の別れである。
裾へ退き、隠れて舞台の進展を見つめていたウィルと客席の最前列に出てきていたアグネスの視線がこの時遇う。
第3幕には、ハムレットの有名なセリフ「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」があるが、そのあと「行けば帰らぬ人となる黄泉の国」とある。この「アンディスカバード・カントリー」は、実はウィルが初めてアグネスに会った時に話したオルフェウスの物語に出てくる言葉であって、アグネスはそれに気付いてハッとする。
ウィルは、死後の世界へと旅立つ息子に別れを告げるために、この戯曲を書いたのだ。
ハムレット王子役の青年がグローブ座の舞台最前列に出てこの苦悩に満ちたセリフを言うと、そこにいたアグネスは思わずその役者に向かって手を差し伸べる。彼女の周囲にいた観客達も、感極まり、同じように手を差し伸べた。
観ていて、この役者は、先に11歳でペストで死んだハムネット役の少年ジャコビ・ジュープに風貌がよく似ているなと思ったが、帰宅後パンフレットを読むと、これを演じたのは彼の実の兄ノア・ジュープであった。徹底した気遣いである。
これはグローブ座の観客らには見えなかったろうが、森の木々がみっしりと描かれた舞台背景、その中央の暗いアーチの中にはハムネット少年の姿があった。当初は、これからどこへ行かねばならないのか、怯えた表情だったが、この場から「私達は一緒だ」というメッセージを受け取ったのか、恐怖から解放されたように明るい顔になって静かに去っていった。ウィルとアグネスも優しい表情で、息子の背中を見送った。
ハムネットは、死んでも、戯曲,舞台,映画、多くの芸術作品の中で永遠に生き続ける事になるのである。
原作 マギー・オファーレル
監督・脚本 クロエ・ジャオ
脚本(共同) マギー・オファーレル
撮影監督 ウカシュ・ジャル
美術 フィオナ・クロンビー
衣装 マウゴシャ・トゥルジャンスカ
編集 アフォンソ・ゴンサウヴェス
出演 ジェシー・バックリ―,ポール・メスカル,ジャコビ・ジュープ,オリヴィア・ラインズ,エミリー・ワトソン,ジョー・アルウィン他
受賞 アカデミー賞主演女優賞,トロント国際映画祭観客賞
原作/英女性小説賞,全米批評家協会賞
2025年/英国
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